【国会議員の目】参議院議員 日本維新の会 松沢成文氏

日本の農業技術が息づくタゴン農場
技術協力と人材育成に注力せよ

参議院議員 日本維新の会 松沢成文(まつざわ・しげふみ)氏

1958年生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、(財)松下政経塾に第3期生として入塾。87年、神奈川県議会議員に立候補し、初当選。93年に国政に転身し、2003年まで衆議院議員を務める。同年から11年まで神奈川県知事(第15代、第16代)を務めた後、13年に参議院議員として国政復帰。現在、文教科学委員会、消費者問題に関する特別委員会などに所属

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※本記事は『月刊 国際開発ジャーナル2021年3月号』の掲載記事です
※当コーナーでは、国際協力に詳しい国会議員が独自の視点から日本の国際協力の在り方を論じます。

祖父と叔父によるラオス支援

―松沢議員の家系にはラオスとつながりの深い方がいますね。彼らの足跡を教えてください。

 祖父と叔父がラオスの農業開発に携わっていた。その接点は戦前にまで遡る。当時、母方の祖父である森徳久が日本の省庁から委託を受け、数回にわたってインドシナ地域における農業支援の可能性を調査していた。祖父は戦後もラオスやカンボジアに赴いていたが、1960年代に入ると叔父の森義久が祖父の取り組みを引き継ぎ、当時のラオス王国と協力して、首都ビエンチャンの郊外に位置するタゴン農場の設立に携わった。

 タゴン農場は政府開発援助(ODA)で日本の農業技術を移転し、日本式農業を実践するモデ
ル地域だ。近隣の河川から水を汲み上げ、広い平野に行き渡らせ、田んぼや畑を作った。日本製の大型ポンプも無償資金協力で供与されている。また、同農場は65年に創設された日本青年海外協力隊(現・JICA海外協力隊)の記念すべき第一回目の派遣先にもなり、現在も継続派遣されている。協力隊員はラオスの研修生たちと泥だらけになりながら、農業指導をしている。

タゴン農場のプロジェクトが動き始めた当時、私はまだ幼い子供だったが、すでにラオスを身近に感じる生活を送っていた。祖父と叔父が人材育成の一環で呼び寄せたラオスの学生が家の近くに住んでいたからだ。学生たちは祖父と叔父が保有する農地で野菜やコメづくりの手法を習得する傍ら、空き時間には私の遊び相手になってくれた。60年代後半に祖父が亡くなったことで、この取り組みは終了したが、叔父はその後もタゴン農場で技術支援を続けた。

人と人がつながる地道な支援を

―2019年12月にタゴン農場を視察していますが、現地の様子はどうでしたか。

 政治家となって、お世話になった人たちから祖父や叔父の功績を至る所で聞く中、「彼らの足跡をたどってみたい」という思いを強くしていた。機会が巡ってきたのは、19年12月に参議院の海外公式派遣議員団に参加した時だ。同団は日本と親交を深めている国に派遣されるもので、私は副議長班の一員としてラオスに赴いた。

 泥だらけの道を抜けてタゴン農場に到着すると、のどかな田園風景が広がっていた。祖父や叔父も同じような景色を見てきたのだろう。農場内を歩きながら、彼らの足跡に思いを馳せた。滞在中は協力隊員や国民議会議長など相手国政府の要人とも面会した。先方政府は協力隊の活躍を高く評価し、感謝のお言葉をかけてもらった。

―インドシナ地域は近年、急速に中国のプレゼンスが高まっています。日本が今後すべき支援は

 中国のプレゼンスの高まりはラオスの視察でも感じた。中国はダムや道路など、インフラの敷設で多額の資金を拠出しており、日本はもう資金面では到底かなわない。

 現実を見据えると、日本は今後、資金力で競争するのではなく、技術協力や人材育成に注力すべきだろう。協力隊をこれからも派遣し続けることに加え、ラオス人を技能実習生として受け入れて、日本の農業技術を伝授し、帰国後に生かしてもらうなどの施策が必要だ。

 ラオスはまだ発展途上の国で、福祉、農業、教育の面で日本が支援できる余地は十分にある。上記の取り組みを通じて、人と人がつながり、日本との絆がより深まっていく地道な支援を期待したい。

本記事は『月刊 国際開発ジャーナル2021年4月号』に掲載されています