Vol.5 モザンビークで見た笑顔とラテン的オプティミズム

モザンビークの日本大使館に勤務していた中澤香世さんが、
現地での仕事、生活、経験などをレポート!

なぜモザンビークにかかわることになったのか
モザンビークはアフリカ大陸の南部アフリカに位置し、ポルトガルを宗主国とする旧ポルトガル植民地である。「なぜモザンビークなの?」と思われるかもしれないが、それは私の個人的バックグラウンドに関係している。上智大学では、ポルトガル語圏地域研究とポルトガル語を勉強し、英国ケント大学カンタベリー校へ留学した時には、南アフリカ・モザンビークの政治経済について研究していたこともあり、将来、漠然とではあるが、モザンビークで仕事をしたいと思っていた。人はイメージや希望を胸に抱くとそれが形となって実現するというが、私の場合には、まさにそれが現実となった。

モザンビークの公用語はポルトガル語で、英語は首都以外、ほとんど使用されていない。幸いにも私は、上智大学在学時に大学交換留学制度にてブラジルに一年間留学した経験もあり、ポルトガル語は生活や仕事をする上で不自由はなかった。モザンビークは17年間、内戦を展開していたため、国内のインフラは2000年代の開発期の現在も壊滅状態の地域が多い。とくに北部と中部は、給水施設・電気回路が破壊された地域が多いのが現状だ。20年近い内戦による疲弊から、初等教育への就学率も低く(71% :2004年度)、また識字率も低い。

モザンビークに赴任
私がモザンビークに赴任したのは2003年の3月中旬だった。モザンビークに到着しマプト空港を出た瞬間、湿気とむせるような暑さを感じた。黄色いタクシーが付近に数台とまっており、客引きのお兄さんに囲まれた記憶がある。大使館からの迎えの車で市内を回った時の第一印象は、キューバに似ているということだった。大学院を卒業して最初の会社に勤務していた時にキューバを旅行したことがあり、その印象は、ラテン的な魅力にあふれながらも、どこか粗野で原始的であるというものだった。モザンビークの首都マプト市内の住宅街は、そんなキューバに似た雰囲気を漂わせていた。マプト市内の道路の陥没がひどく、一般市民は「モザンビーク政府は道路を修復するための資金がないからだ」と理由を説明していたことを、今でも鮮明に記憶している。

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ポラナホテル

当時、日本大使館はポラナホテル内にあり、正面玄関とプールを通過して地下の階段を降りてたどり着いたのが日本大使館だった。由緒あるホテルで、建物は古いながらも重厚な感じがした。大使館に到着するとローカルスタッフが何人かおり、部屋ごとに担当業務が区分されていた。部屋ごとに挨拶をして回った私を出迎えてくれたのは、20年近く継続した内戦の歴史を感じさせない底抜けに明るいモザンビーク人の笑顔だった。こうして私の2年間に及ぶ (2003年~2005年)モザンビーク生活はスタートした。

草の根無償資金協力事業を担当して
私が国際協力の世界に飛び込んだのは、「女性と子供のために働きたい」という強い思いがあったからだ。モザンビークの大半の地域では、女性や子供をとりまく環境は過酷で、それを目の当たりにした私は、初めて女性と子供を助ける仕事をしたいと感じた。私が大使館で担当することになった草の根無償資金協力事業とは、外務省の資金供与のもと、1案件1千万未満の小規模プロジェクト。草の根無償の醍醐味は、何といっても現地のNGOがプロジェクトを実際に実施することにより、草の根レベルのきめこまやかな支援ができるところにある。

モザンビークは20年近く継続した内戦のため、首都以外の中部や北部地域は、基礎インフラも壊滅状態である上に、撤去できていない地雷や回収できていない武器も多く存在し、その数は、正確にはわからないほどだ。大使館では、ポルトガル語と英語のプロポーザルの審査、プロジェクト施行までのスクリーニングプロセスの行程作業、そしてプロジェクトが無事に進行しているかどうかを視察するためのモニタリングなどに追われる日々であった。モザンビークは、一年の半分は真夏だが、湿度が高く、気温は30度~37度。しかし大西洋に面しているため海の風が強く、内陸国と比較するとさほど暑さを感じず、過ごしやすい国である。

旧ポルトガル植民地のモザンビークでは、「人生いかに楽しく過ごして生きるか」に優先順位が置かれているため、「労働」に対する意識は日本的な「労働」の概念とは異なる。モザンビークに限らず、ポルトガル語圏の国々では、「人は人生を楽しむために生きる」と考えられているため、生活における「労働」の優先順位は低い。つまり、全体の中の労働の位置が低いのである。実際の業務で苦労したことは、現地に登録しているローカルNGOとの交渉であった。時間の流れがゆったりとしているモザンビークでは、日本と比較するとすべての物事の流れがスローペース。そして、その時間の流れを変えることは難しい。重要なのは、その雰囲気の中でどう仕事をしていくかだ。半年も経過すると、次第に仕事面でも生活面でも現地に適応し、現地NGOとの交渉におけるコツも把握できるようになった。団体担当官の言葉をどう解釈し、フォローアップを行っていくかも思考錯誤しながら習得することができた。私生活では、自宅や友人宅でホームパーティを時折行い、楽しい時間を過ごした。このようにして、私の怒濤のモザンビーク生活はあっという間にすぎていった。

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自宅に同僚を招く

フィールドの楽しさ
モザンビークで草の根無償を担当して一番の収穫は、フィールドで得られた経験である。業務の一環として、プロジェクトの進行状況を視察するため、月一回の頻度で首都を離れ、プロジェクトの視察に出かけた。現場まで四輪駆動で走る道中、農村地帯の風景を見ることで一般の人々がどのような生活をしているかを把握することができた。

首都マプト以外の中部と北部の農村地帯では、人々は自給自足生活を営み、野菜や果物やカシューナッツなどの豆類の栽培や海洋漁業で生計を立てている。各農村には小さな屋台があり、マッチなどは販売しているので手に入る。しかし、果物ジュースや缶詰などは農村に住むモザンビークの人々には高価であり、もっぱら、購入するのは旅行者や現地在住の外国人だ。もっとも、マンゴやパパイヤは現地の畑で栽培していることから、生の果物を搾って飲んでいる人はよく見かけた。

伝統的な中部や北部の農村地帯では、水・電気などの基礎インフラがない地帯が多く、人々は村にある井戸を使って炊事洗濯をしている。サブサハラアフリカの多くの国で水は、水因性疾病の原因となっており、モザンビーク農村地帯でも、水に関する衛生問題は緊急的課題である。大半の村の井戸や近隣の川から運搬してきた水は、人間の汚物や生活用水で汚染されており、煮沸した井戸水を飲んでも、下痢やアメーバ赤痢になる子供や女性は多い。こうした給水事情から、モザンビークでは、改善された水源を継続して利用できる人口は全国民の43%未満に過ぎない。

私自身、フィールド調査では、4日間シャワートイレなしの生活を余儀なくされた経験もあるが、女性や子供、工事現場の人夫と話しをする機会などもあり、農村地帯の人々の生活を知ることができた。モザンビークの多くの地域では、人々が生活する住居は茅葺き家屋の簡素なものであり、農産物や海産物を栽培・採取する自給自足の生活をしている。絶対的貧困(モザンビークの人間開発指数は177位中168位:UNDP人間開発報告書出典)者が多いといわれる国だが、人々のパワーと底抜けの明るさに接することにより、人生について学ぶことは多かった。

モザンビーク農村地帯の女性と子供
モザンビーク北部の海岸線地帯には、実に美しいビーチが展開している。カーボデルガード州にあるペンバの海岸線には、美しい珊瑚礁のビーチが広がっていたが、その周辺には農村が広がり、人々は茅葺き屋根の家に暮らし、家畜を飼い自給自足の生活を営んでいる。北部農村地帯を訪問したときは、人間より家畜を多く見たことも印象的だった。

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伝統的な漁業用の船(モザンビーク北部)

モザンビークでは、女性が籠やバケツを頭に乗せて何キロも炎天下の中を歩く姿をよく見かけた。女性は何キロもの舗装されていない道路を、何時間も歩いていた。そして子どもたちは、最寄りの小学校まで平均5キロ~10キロ歩く生活を送っている。それでも、小学校が近隣にある村はまだ良いほうだ。地域によっては、小学校が近隣の村にない場合もある。そうした場合、子どもは初等教育を受けることができない。小学校が遠いという事情もさることながら、多くの子どもや女性は、家事や手伝いに追われ、学校が遠い存在になってしまうことも多い。こうした状況を改善するために、モザンビーク中部と北部の農村地帯に、小学校、給水施設、保健所が隣接した総合的な施設の建設計画を投入することによって、水因性疾病の削減と初等教育へのアクセスを容易にすることが期待できる。

近況
私は2005年4月に帰国し、現在は内閣府に置かれている国際平和協力本部事務局に研究員として勤務している。モザンビーク・アンゴラを中心とした南部アフリカを研究をする一方、複数の大学で特別講義を行っている。講義の際に大学の担当教員からは、「大学生が国際協力に関心をもつきっかけとなるような国際協力のフィールドの話をしてください」、「開発途上国の現場は大学生や一般の日本人にとっては大変遠い話であり、途上国の現場の臨場感をリアルに伝えてほしい」と要請されることが多い。現在まで4つの大学で9本の講義を行ったが、どの大学からも要求されるのは共通してこうした内容である。

多くの大学は、「国際関係論」、「国際社会学」、「開発経済学」の講座を持っており、講義後には、「多くの大学生が開発途上国の現状特に女性や子供がどのような環境にて生活しているのか」、「女性として国際協力のフィールドで仕事をして困ったことは何か」など、女性として経験した現場での苦労に質問が集中する。大半の大学生は、開発途上国のフィールドは遠い存在と認識しつつも、マラリアやHIVなどの世界的課題については関心を持っているようだ。私が大学での講義を引き受けるのは、大学生に少しでも国際協力に関心を持ってもらうきっかけとなればとの思いからだ。どの大学でも、フィールドや現場の様子が知りたいというのは共通しており、私のこうした対外活動が、未来の国際協力の業界を担う若者たちが育つきっかけとなればと願っている。

「女性や子供の生活状況改善のために貢献したい」と純粋な思いを抱いている人にメッセージを贈るとすれば、“国際協力の世界への関わり方はいろいろある”ということだ。NGOでボランティアをする、日比谷公園で開催されるグローバルフェスタに参加するなど、さまざまな形がある。こうした参加は、国際協力における人材育成への一歩となり、将来的に日本の国際協力業界へのつながるのではないかと考えている。

おわりに
モザンビークでの生活で得た一番の財産は、絶対的貧困の中でも物事をポジティブに考えることと困難の中でも笑顔を絶やさないこと、つまりラテン的オプティミズムである。「現代日本は物質的豊かさには大変恵まれているが、精神的豊かさは充実しているか」と新聞の論壇や雑誌などで論じられて久しい。精神的豊かさを持ったアフリカの人々に会えたことは、私の人生の中で貴重な経験となったといえる。