「トアルコ トラジャ」。
当時、“幻のコーヒー”と呼ばれていたトラジャコーヒーを復活させ、一大ブランドにまで育て上げたのが、キーコーヒー株式会社だ。今年は、1973年に第一次現地調査が行われてから35年、1978年にトアルコトラジャ・コーヒーの発売が開始されてから30年の節目にあたる。
インドネシアのスラウェシ島中部に位置するトラジャ県で展開されている同社のトラジャ事業は、幻のコーヒーを復活させたことにとどまらず、コーヒー栽培にかかわる人々の生活水準の向上や地域経済の発展に大きく貢献してきた。
企業の直接投資や貿易の拡大など、開発途上国の経済発展には民間の力が不可欠であり、「アジアの経験」とは、まさにこうした民間ベースでの経済活動が原動力となったということが認識されつつあるなか、われわれODAにかかわる者が、この事業から学ぶべきことは多い。
トラジャへの道すがら
日本から飛行機で約8時間、インドネシアのバリ島に到着。翌日朝、さらに飛行機で1時間30分、ようやくトラジャがあるスラウェシ島、マカッサルに到着した。マカッサルはスラウェシ島最大の商業都市で、古くから香辛料をヨーロッパへと運ぶ交易の港町として栄えてきた。キーコーヒーが日本で販売する「トアルコ トラジャコーヒー」も、この港から輸出されている。
トラジャコーヒーの里、南スラウェシ州中部に位置するトラジャ県まではここからおよそ330キロ。車で約7時間。マカッサルの町を抜け、パレパレまで2時間ほど海岸線上を北上するのだが、この区間の道路はよく整備され快適だ。海岸線の道路沿いには、見たこともない大きな魚の干物を売る店が立ち並ぶ。すれ違うトラックの多さから、この道路がスラウェシ島の物流動脈となっていることが理解できた。
パレパレで昼食をとり、一路、トラジャへと向かう。海岸線を走っていたときとは打って変わって山道だ。車での長距離移動には慣れているつもりだったが、気分が悪くなりそうになる。エンレガンの眺望がすばらしい峠の茶屋で小休止、さらに山肌をぬって進む。そうしてトラジャ県に到着したころには、すっかり辺りは暗くなっていた。
標高約700メートルに位置するトラジャの夜は肌寒い。マカッサルとの気温の差は歴然だ。
トラジャ・コーヒー開発事業2つの柱
第二次世界大戦やインドネシア独立運動など、戦中戦後の混乱の中で消滅したと考えられていた“幻のトラジャコーヒー”の復活をかけて、キーコーヒーがこの地を初めて訪れたのが1973年のことだ。それから35年という歳月を経て、今ではトラジャ県一帯が、世界的に有名なコーヒーの産地となっている。
トラジャコーヒーの名は広く知られているが、幻のコーヒーと言われた時代があったこと、それを復活させたのが日本のコーヒーメーカーだということを知っている人は少ない。恥ずかしながら、自分自身、このことを知ったのはごく最近のことだ。
キーコーヒーがインドネシアでコーヒー事業を進めるにあたって、74年に東食(現・カーギルジャパン株式会社)とそれぞれ50%ずつ出資し、「スラウェシ興産株式会社」(資本金2,500万円)を設立。76年には、スラウェシ興産が80%、インドネシアの「PT. UTESCO(ウテスコ社)」が20%を出資し、「PT. TARCO JAYA(トアルコジャヤ社)」(資本金69万ドル)を設立している。このトアルコジャヤ社が、トラジャコーヒーの復活を目指して行ってきた事業の柱は2つ。それが「住民栽培コーヒー事業」と「パダマラン農場開発事業」だ。
住民栽培コーヒー事業は、住民が栽培したコーヒー豆を集買所に持ち込んでもらい、買い上げるというものだ。
集買事業を開始した当時、持ち込まれるコーヒー豆には、木から摘んだままの「コーヒーチェリー」、脱肉、発酵、水洗、半乾燥までを済ませた「パーチメント」、さらにそれを脱殻した「グリーンビーンズ」があり、それぞれ買い取り価格には差があった。当然、チェリーよりはパーチメントが、パーチメントよりもグリーンビーンズの方が、キロ当たりの価格は高くなる。
栽培農家にとり、コーヒーチェリーの状態で持ち込めば、手間はかからない。しかし、保存が利かないため、収穫してすぐに集買所に持ち込む必要がある。また、コーヒーチェリーは水分を多く含んでいるため重く、道路インフラが整っていない遠くの村から運んでくることは難しい。
パーチメントやグリーンビーンズまで加工したものは、乾燥しているため運搬は楽であり、比較的保存が利くことから価格が高いときに持ち込めるなどのメリットもある。ただし、正しい精選加工技術が求められ、怠れば、割れ豆やカビ豆などが発生するリスクが高くなる。山間に村が点在するトラジャでは、多くの住民にとり、精選加工を済ませ付加価値を持たせた状態で持ち込むことの方が現実的であり、よりメリットも大きい。
実際、集買事業が開始された当時から、パーチメントの状態で持ち込まれることの方が圧倒的に多かったという。しかし当時は、栽培農家の品質に対する意識や技術が低く、持ち込まれる豆には、未完熟豆、割れ豆、発酵豆、カビ豆などが混入し、品質が悪く買い取れないものが多かった。
「生産者である農家の人が儲からなければコーヒー栽培は根付かない。儲かるからこそ品質の高いものをつくってくれる」と話すのは、自身、この地に赴任した経験があるキーコーヒーの吉橋宏幸氏。
こうしたことから、モデル農園をつくり、そこで正しい栽培技術や加工技術の普及を図るとともに、良質なコーヒーの苗木や肥料の無料配布を積極的に行ってきた。その結果、現在ではコーヒー豆の品質が向上しただけでなく、栽培農家自らが、すべてパーチメントの状態にまで加工して集買所に持ち込むようになった。
現在でも、こうした品質に対する取り組みは続けられており、昨年度は7カ村で農民講習会を開催、計2万2,000本の苗木を配布している。
もう1つの柱が、パダマラン農場開発事業だ。これはパダマラン山に直営農場をつくり、高品質なトラジャコーヒーを計画的に生産するというもので、これが本格的に開始されたのは、77年6月。開墾予定地は、もともと一部に旧オランダ時代のコーヒー農場があったところだが、長い間放置され、当時は密林と化していたという。
幹線道路から農場の入り口まで約6キロ。トアルコジャヤ社は、このアクセス道路の建設をトラジャ県に依頼するも着工の目処すら立たずに断念、その後、自力で造成している。こうしてアクセス道路の建設から始まったパダマラン農場開発は、ジャングルの開墾、農道整備、コーヒーテラスの造成、苗木づくり、肥料づくりなどが進められ、81年3月に、ようやく予定していた424ヘクタールのコーヒー栽培用地に約61万本の苗木の植え付けが完了。アクセス道路の建設を始めてから4年近くを要した。
また、84年7月には農場の敷地内に精選加工工場も完成、現在パダマラン農場では、コーヒーの栽培だけにとどまらず、コーヒー豆の精選加工も行っている。
サパン市場で集買事業を見る
トラジャに到着した翌日の早朝5時30分、いよいよ集買事業を見に出かけることに。この日は日曜日、サパンで市場が立つ日だ。
この集買事業の対象地域となっているのは、トラジャ県北部の標高1,300~1,800メートルの山岳地帯。7,500ヘクタールに約7,000のコーヒー栽培農家が暮らしている。ウマ、ペランギアン、トンドリタ、バルップの4カ所に集買所があり、ここではトアルコジャヤ社が直接コーヒー豆の集買を行っている。また、6日に1回のペースで各村に立つ市場でも仲買人による集買が行われており、こうして集められたコーヒー豆は、ランテパオにある集荷検品所へと運ばれる。集買されるコーヒー豆は、グリーンビーンズ換算で、年間約500トンにも上る。
サパンを目指しランテパオの町を出発、間もなくして山道に入る。意外にも整備された道路に、聞けば90年代に日本のODA(無償資金協力)で整備された道だという。ちょうどこの「日本インドネシア友好道路」を抜けるころ、トンコナン・ハウスがあちらこちらに見えてくる。この船をかたどった屋根を持つトラジャ地方独特の家屋は、キーコーヒーが販売している「トアルコ トラジャコーヒー」のロゴマークにもなっている。
このトンコナン・ハウスが点在する風景はもちろん、トラジャ族はキリスト教徒が多く、同じインドネシアでもジャワ島やスマトラ島と違いモスク(イスラム教寺院)が見当たらない風景が新鮮だった。
途中、バトゥ・トゥモンガで朝食を済ませ、サパンに到着したのは9時30分ごろ。標高は1,500メートル。あいにくの小雨模様にもかかわらず、市場には多くの人が集まっていた。サパンに限らず、こうした市場では、コーヒー栽培農家が仲買人に豆を売って得た現金で、日用品や食料品などを購入している。
この日、ちょうど市場に豆を売りに来ていたタンディ・ラレさん(65歳)に話を聞くことができた。
サパンまで約10キロの道のりを、息子のパウルス(32歳)と2人で歩いてきたというタンディさんは、2週間に1度の割合で市場に来ている。持ち込むコーヒー豆の量はまちまちだが、この日は26万7,000ルピア(約3,140円)になった。
コーヒー栽培をするようになって生活は変わったかとの問いに、「最近は物価が上昇して生活は厳しい」と言いながらも、「現金収入がほとんどなかった昔と比べれば、コーヒーを栽培するようになってからは安定した生活ができるようになった」と答えてくれた。
“仲買人”の役割
仲買人はどのくらい儲けているのだろう。“仲買人”という言葉の響きには、あまり良いイメージはない。どうしても“搾取”とう言葉をあわせて連想してしまう。
現地を案内してくれたキーコーヒーの人には悪いと思いながらも、何気なく仲買人に聞いてみることに。
ユスフ・レンバさん(45歳)。先ほどタンディさんから豆を買い取っていた仲買人だ。ランテパオから来ているというユスフさんは、仲買人の仕事を始めて4年。1日に150~300キロのコーヒー豆を買い付けているという。市場での買い取り価格やランテパオでの買い取り価格を、巧みな話術(?)で聞き出す。すると、1キロあたり100~200ルピア(約1.2~2.4円)が利益になる計算だ。これは想像していたよりもずいぶんと低い。
300キロを運んで、最大キロあたり200ルピアの利益があったとしても、せいぜい6万ルピア(約706円)程度の稼ぎにしかならない。栽培農家の人がいる前で買い取り価格を聞いているので、これは信頼していい数字だろう。また、ランテパオでの買い取り価格についても、トアルコジャヤ社の人に同じ質問をして同様の回答を得ていることから間違いない。それにしても仲買人の利益が低い。
他の仲買人に話を聞く中で、その計量の仕方に秘密があることが分かった。トラジャでは、伝統的に秤が必要となる「キロ」よりも、より安価な計量升を使った「リットル」という単位で取り引きされることが多い。すり切り一杯を1リットルとして、それをキロに換算したのが買い取り価格。これに対して、栽培農家から豆を買い取るときには、山盛り一杯で1リットル。この山盛り分が仲買人の利益になっていた。
それでも先ほどの利益にプラス20%程度。ガソリンが1リットル6,000ルピア(約71円)することを考えたら、決して割りのいい仕事ではない。また、欠点豆が混入しているリスクも仲買人が負うことになる。こうしたことを考えると、仲買人というよりもむしろ運送屋に近い。
トアルコジャヤ社の集買所がこの地域に4カ所しかないなかで、そこにアクセスできない栽培農家にとっては、各市場にいる仲買人は販路としてなくてはならない存在だ。また、トアルコジャヤ社にとっても、集買対象地域すべての村に集買所を設置することは、コスト面からみても現実的ではないだろう。
仲買人は、「標高の高いところほど品質の良いコーヒー豆が栽培できるが、標高が高いところほどアクセスが困難になる」というジレンマを解消するだけでなく、「より多くの住民がトラジャコーヒーの恩恵を受ける」ことにも一役買っていた。
プルプル村を目指すも
サパンの市場を後に、一路、プルプル村を目指す。プルプル村の標高は約1,800メートル。集買事業対象地域の中でも、もっとも険しいところにある村だ。サパンまでは、かなりのでこぼこ道ではあったものの、一応は舗装された道であった。ここからは未舗装道。サパンから離れるにつれ、とんでもない悪路に。車の天井に頭をぶつけながら進む。
プルプル村まで残り数キロの地点で、同行してくれたキーコーヒーの吉橋氏の判断により、これ以上、先に進むことを断念。ちょうどそこは、ウマの集買所があるところだ。
「昔はよく車が動かなくなり、帰れなくなることがあった」と笑いながら話す吉橋氏。
プルプル村でコーヒーが栽培されている様子を見るのを楽しみにしていたこともあり、残念な気持ちもあったが、これ以上、先に進めるとは到底思えない。こんなところにまでトアルコジャヤ社が集買に来ているかと思うと、頭が下がる思いだ。
品質管理の要 ランテパオ集買所
ウマの集買所でお昼を食べ、ランテパオへ引き返す。目指すランテパオの集買所は、すべての集買所で集められたコーヒー豆が運び込まれる基地であり、またトアルコジャヤ社の住民栽培コーヒー事業とパダマラン農場開発事業を統括する事務所が置かれているところでもある。
ランテパオの集買所の主な役割は、集買されるコーヒー豆の品質管理だ。60キロの麻袋ごとにサンプルを取り出し、豆の大きさや割れ豆やカビ豆などが混入していないかをチェックする。さらにそれを脱殻したものを実際に焙煎し、“カップテスト”と呼ばれる味覚評価が行われる。こうした検査をすべてクリアした豆だけが、パダマラン農場内にある精選加工工場へと運ばれる。
現在、このランテパオ事務所に勤務するキーコーヒーの佐々木徹氏によれば、集買されるコーヒー豆の品質を高める取り組みとして、93年から仲買人や栽培農家の登録制度を導入しているという。この登録制度により、誰が、いつ、どこから、どのような豆を持ち込んだのかを追跡できるようになった。また仲買人が栽培農家から豆を買い取るときにも、きちんと記録することが義務付けられているため、欠点豆や不正があったときには、生産者まで遡れる仕組みになっている。当然、豆を持ち込む人は、自分で持ち込む豆に責任を持つようになる。また、生産農家も欠点豆を売るなど、仲買人からの信用を失うようなことはできない。
栽培農家を対象とした講習会や苗の無償配布が技術の向上を目指したものなら、この登録制度は、“意識の向上”を目指した取り組みだといえる。
現在、登録者数は栽培農家が約450人、仲買人が約200人。登録するためには、KTP(住民カード)などで身分が証明できること、村長からの推薦状があることが条件となっている。もちろん登録料などはかからない。
「大口の仲買人だけに限定してしまうと販路が少なくなり、栽培農家が買い叩かれてしまう。住民コーヒー栽培事業は、生産意欲の向上と生活の安定の上に成り立つものだ」との佐々木氏の話に、なるほど、先ほど見てきたサパンの市場には、多くの仲買人がいたことを思い出した。
新たな目標に向け動き出したパダマラン農場
トラジャ視察の最終日、パダマラン農場を見に行く。出発は早朝の5時30分、今日もあいにくの小雨模様だ。
宿泊先のランテパオから車で約1時間弱、幹線道路から左に折れ、農場までのアクセス道に入る。これが、開墾当時にトアルコジャヤ社が切り開いた道だ。県の公道となった今でも、初代パダマラン農場長だった清野剛氏の名前にちなみ、「ジャラン・セノー」(清野道路)と呼ばれ、農場で働く人はもちろん、周辺住民の生活道として多くの人に利用されている。まだ朝の6時30分というのに、すでに農場に向かう人たちの姿が見られた。
農場の門をくぐり、すぐ左側にある事務所でパダマラン農場の現況を聞く。
パダマラン農場の敷地面積は530ヘクタールで、これは東京ドーム約113個分に相当する。そのうち約325ヘクタールに約35万本のコーヒー木が育てられ、年間収穫量はグリーンビーンズにして約120トン。資料を見ると、80年代後半には420ヘクタールあまりに約90万本のコーヒーの木が植えられていたことが記録されており、比較するとずいぶん規模が縮小したことがわかる。ただ、90年代からトアルコジャヤ社としてのコーヒー豆の輸出量は年間500~600トンと安定して推移しており、この分、集買事業が拡大したことが推測できる。
事実、今年日本で発売された「新生トアルコ トラジャ」のストレート品には、すべてパダマラン農場よりもさらに標高が高い集買対象地域で栽培されたコーヒー豆が使われている。
パダマラン農園は、「トラジャコーヒーの生産農場」という役割を果たし、どのように変貌を遂げようとしているだろうか。
自然との共生
作付面積が縮小された農場では、その土地を“自然林に返す”という取り組みが行われていた。開発当時は、収穫量を上げるため傾斜のきついところや土壌がコーヒー栽培には適さないところにまで苗木が植えられていた。
当然、そうしたところにコーヒーを植えても収穫量は増えない。自然保護の観点から、こうした場所にはもともとこの土地にあった木を植え戻している。
また、直射日光からコーヒーの木を守るシェードツリーと呼ばれる日陰樹も、これまでは栽培効率を優先させ成長が早い種類の木が植えられていたが、周辺環境との調和を考え、在来種に変えている。さらにパダマラン農場では、有機農法によるコーヒー栽培にも挑戦している。現在農場にある35万本のコーヒーのうち、すでに約1万本を有機農法に切り替えた。
「標高1,000メートルクラスの有機栽培コーヒーは世界的にも珍しい」と佐々木氏は話す。また、残りの34万本についても、必要最低限の農薬しか使わない“減農薬”に努めている。
こうした自然林に戻す取り組みやコーヒーの有機栽培を進めていくために、農場ではドリアンやナンカ、バカといった在来種の苗木を育てているほか、精選加工の工程で出るコーヒーチェリーやパーチメントのカスを利用した有機肥料づくりも行っている。
こうした取り組みが高く評価され、07年12月、パダマラン農場は日本のコーヒーメーカーの直営農場として初めて「Good Inside」を取得した。これは、環境や地域社会、生産管理などに配慮したサスティナブル(持続可能)な農場だけに与えられる認証だ。
パダマラン農場は、これまでのコーヒー豆の生産や栽培・精選加工技術の普及といった目的に加え、「自然との共生」をテーマとした、新たなコーヒー農場へと変貌を遂げつつあった。
トラジヤ事業がこの地に与えたインパクト
今回の現地取材では、キーコーヒーがこれまで長い年月をかけこの地で行ってきた取り組みを駆け足でまわった。特に産業がなかったトラジャ県で、パダマラン農場や集買所などは、現地の雇用に貢献してきたことはインタビューからも明らかだ。だた、それは直接的に裨益した人であり、特筆すべきは、この地に高いコーヒー栽培技術を根付かせ、トラジャコーヒーを世界的に有名なブランドとして確立させたことだろう。また95年に焙煎事業の許可を得て、インドネシア国内向け商品の販売を開始したことにも触れておきたい。こうした事業展開も加わったことで、集買対象地域に住む約7,000世帯の栽培農家を始め、トラジャコーヒーに直接・間接的に関わる多くの人々がトラジャ事業の恩恵を受けている。
[パダマラン農場長のユスフ氏(左)は、「30年前は腕時計やラジオを持っているのがお金持ちの象徴だった。今では子どもでも腕時計をしているし、多くの人がラジオではなくテレビを持つようになった」と話す。マリアさん(中)は、22年前からこの農場で働いている。「ここでの稼ぎで3人の子どもたちを学校に行かせることができた」と笑顔で話してくれた。マキウスさん(右)は、トアルコジャヤ社の集買部門で働く運転手だ。「ここで働くようになってから収入が安定し安心して暮らせるようになった」という]
キーコーヒーが10年前にまとめた「トラジャ事業史」に、こんな数字が残っている。91年度の南スラウェシ州の予算規模は1,171億ルピア。同じ時期、トアルコジャヤ社がトラジャ県内に落とした金額は、労務費や集買金額として計250億ルピア。これはスラウェシ州予算の21%に達する。
また、トラジャ事業がこの地のコーヒー生産に与えたインパクトを知る上で、アラビカ種とロブスタ種の輸出量を見るのも面白い。
当時トンドリタにあった集買所・精選加工工場で、苗木の無償供与が開始されたのが79年。その年にマカッサル港から輸出されたコーヒー豆は、ロブスタ種が5,073トンに対してアラビカ種はわずか206トンだ。それが95年には、ロブスタ種が616トンにまで減少したのに対して、アラビカ種が初めてそれを上回る1,841トンにまで拡大。以降は、ロブスタ種はアラビカ種に輸出量で大きく水を開けられている。
もちろんトラジャコーヒーはアラビカ種だ。このアラビカ種はロブスタ種に比べ高値で取引されるが、病虫害に弱いことから栽培が難しく、トラジャ事業が始まるまでは敬遠されてきたという背景がある。この地にアラビカ種を広めたのはまさしくキーコーヒーであり、こうした視点からもトラジャ事業がこの地に与えた影響の大きさを窺い知ることができる。
35年という歳月をかけ、日本の一企業としては類を見ない地域一体型事業として成功を収めたキーコーヒーのトラジャ事業。ここから何を学び、どうフィードバックしていくのか。この事業は、開発援助に携わる者に多くの示唆を与えてくれる。
(本誌編集部 真田陽一郎)
『国際開発ジャーナル』2008年9月号掲載記事