日本財団 連載第9回 
ソーシャルイノベーションの明日 

写真:メリーチャップマンろう学校で、自ら作成した手話辞書・辞典の内容を発表するプロジェクトメンバー

 

当事者が作る手話教材 ―アジア全体でろう者の社会進出を目指す

 

言語としての認知度低く

 声を使わずにコミュニケーションをとる人たちをご存知だろうか。ろう者と言われる、聴覚障害者の中でも日本語や英語といった音声言語ではなく手話を母語とする人々のことである。世界ろう連盟によると、世界に約7,000万人いる。

 手話は、言語学・脳科学的に見ても音声言語と並ぶ言語であり、2006年には国連障害者権利条約で「手話は言語である」と定義された。にも関わらず、手話を言語と認めている国はいまだ少ない。特にアジアでは、手話を使える環境が非常に限られており、ろう者は生活のあらゆる場面で不利益を被っている。例えば、学校の授業や会社の会議は音声言語だけで進められるため、ろう者は内容が理解できない上、自分の意見を主張する際には口話や時間のかかる筆談の使用を余儀なくされ、不利な立場に置かれてしまうこともある。病院でも、医師と正確な意思疎通ができなかったり、自然災害が発生した際の音声による緊急通報に気付けず、逃げ遅れてしまったりすることもある。

言語学や教授法から学び辞書作成に生かす

 「みんながみんなを支える社会」の実現を目指す日本財団は、かねてより障害者が自ら社会変革を起こすことを期待して、当事者リーダーの育成に力を入れてきた。ろう者に対しては、リーダーシップ研修のほか、彼らの視点に立った手話の研究、ろう児・ろう者に対する手話での教育、手話の法的認知の促進などに取り組んでいる。このほか、ろう者の社会参画も促しており、社会における手話の普及と手話通訳者の養成も重視している。普及や養成には、手話の辞書や教材、手話言語学の知識を持つ人材が必要だが、アジア太平洋地域の多くの国には実用的で信頼の置ける辞書・教材が少ない上、教育機関もほとんどない。

 そこで日本財団は、この問題の解決に取り組んでいる香港中文大学の手話言語学・ろう者学研究センター(CSLDS)と共に、06年から「アジア太平洋手話言語学研究および手話研修プログラム」(APSL)を開始した。APSLの大きな特徴は、アジア諸国のろう者によって手話の辞書・教材を作成する点だ。CSLDSが、研修生として各国から集まったろう者を対象に手話言語学の基礎や手話の記録方法、ろう者学などを手話で教えるとともに、辞書と教材の作成も指導している。日本財団は資金面のほか、企画立案や世界ろう連盟との関係構築などの面でこの活動を支えている。これまでインドネシア、スリランカ、ベトナムなど8カ国の人材を養成し、辞書・教材を作成してきた。研修生の中には、教授法を学んで手話を教える実践力を身に付け、その後、手話の先生になる人も珍しくない。

 ろう者による辞書・教材の作成を進める背景には、手話のできない人が辞書を作成した場合、誰も使っていないような手話や誤った意味や表現の手話が収録され、実用性に欠ける可能性があるからだ。手話を使う当事者が手話言語学者と共に作成することで、より自然で「ろう者に伝わりやすい」手話が習得できる内容となるのだ。

 ミャンマーではこのほど、ヤンゴン手話辞書・教材が完成し、ヤンゴン市内にあるメリーチャップマンろう学校へ贈呈された。同校を卒業後、一般の高校へ進学したものの手話通訳者がいなかったため授業についていけず退学した経験を持つ20代の女性は、「これで学校で手話が教えやすくなる。手話ができる人や手話通訳者が増えれば、私たちにできることが広がる。私は大学に行きたい」と嬉しそうに話した。

インターネット辞書も開発

 これらの辞書や教材は紙だが、より多くの人に辞書を使ってもらうため、近年は「アジアン・サインバンク」※というインターネット辞書の開発にも力を入れている。手話単語を動画で確認できるようになっており、紙面だとわかりにくかった細かい手話の動きを正しく学ぶことができる。英語や現地語からでも単語を検索することができ、手話の手形からもその意味を調べることができる。さらに、手話言語学の研究者が活用するような細かい条件検索も可能となっているため、手話初心者から研究者まで幅広い人が利用できる。昨年だけで1万5,000件を超えるアクセスがあった。今年2月には、オーストリアのエッスル財団が主催する、バリアのない世界を目指し障害者権利条約に基づいた活動を推進する「ゼロ・プロジェクト」において、先進的なアクセシビリティプロジェクトとして賞を受賞した。こうした評価も受けつつ、今後は単語のみでなく例文も追加し、より実用性の高い辞書を目指していくつもりだ。

「支援される」から「支援する」へ変わる意識

 手話を言語と認めている国は少ないが、実はろう者自身でさえ、手話を言語と認識している人は少ない。手話を使うたび周りから差別の目で見られていたら、そうなるのは当然のことだ。  しかし、彼らが手話言語学を通じて手話を音声言語と並ぶ立派な言語だと知れば、彼らの中には喜びと誇りが生まれる。さらに、辞書・教材の作成に関わることで当事者だからこそできる支援があると気付き、「支援される」から「支援する」へと意識が変わり、彼らを社会や人々に影響を与える当事者リーダーへと成長させるだろう。

 これらの動きをさらに後押しすべく、日本財団は現在、ろう者や手話通訳者、手話言語研究者など多様なアクターを巻き込んだ「アジアの大学における手話言語学ネットワーク」の構築を香港中文大学と構想中だ。このネットワークを通じて手話研究を促進させ、アジアにおけるろう者と手話の地位向上を図る。そうした相乗効果を、アジア全体で生み出していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

profile

日本財団  特定事業部 部長  石井 靖乃氏

 1962年、神戸生まれ。84年に甲南大学経済学部を卒業後、90年まで三菱商事(株)に勤務。94年にカナダのダルハウジー大学大学院で修士号(経済学)を取得した後、95年、日本財団に入職。2010年より現職。「障害者インクルーシブ防災の推進プロジェクト」や「聴覚障害者向け電話リレーサービスプロジェクト」など、国内外の障害者支援プロジェクトを多数手掛けている。

『国際開発ジャーナル』2018年5月号掲載

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