世界の援助体制を展望 夢に消えた日本の援助省構想|羅針盤 主幹 荒木光弥

先進各国の援助体制

本誌『国際開発ジャーナル』2023年1月号では、本誌論説委員であり政策研究大学院大学の教授を務める大野泉氏が「開発協力と安全保障問題」を解説した。米国、英国、ドイツなどの3D(Defense、Diplomacy、Development)と開発協力との連携が主なテーマだった。

では、筆者は本号で先進各国の援助システムを展望しながら、日本での同議論のあり方に言及してみたい。

米国の国際開発庁(USAID)から始めよう。USAIDは1961年に対外援助法により国務省の一機関として設立された。機構的な特徴としては、援助担当部局が地域別に分かれ、資金協力と技術協力を一元的、かつ戦略的に実施している。

次いで、英国の国際開発省(DFID)は、主に多くの旧英国連邦をカバーする形で、経済開発協力、貿易協力から教育に至るまで幅広い援助体制を構築。しかし、どちらかと言えば、経済援助よりも教育など人材育成に重点を置いているのが、英国援助の最大の特徴だと言える。筆者の会ったマレーシア政府の高官は、英国ケンブリッジ大学への留学を誇るように語り、その口調も見事に英国調であった。英国流人材教育が一つの大きな政治力になっていることを痛感させられる一幕である。(なお、DFIDは2020年9月に外務連邦省と統合され、外務・英連邦・開発省(FCDO)となっている)

その意味では、フランスも旧植民地国への影響力を、フランス語を通じて大きく補っていると言える。フランス開発庁(AFD)は北アフリカ地域を中心に、旧植民地国のみならず、南太平洋など現植民地の経営まで手堅くマネージしている。近年まで協力の実施機関は分散的で、技術協力も含む無償援助などは別機関が担っていたものの、2019年には統合が進められた。

ドイツは、西ドイツ時代から援助政策の企画立案などを連邦経済協力開発省(BMZ)が担当し、資金協力は復興金融公庫(KfW)、技術協力は国際協力公社(GIZ)が実施する体制を取り、ドイツの技術力の海外シフトに大きく貢献している。次いで、ノルウェーとスウェーデンは、援助の規模は大きくないが、「国際開発庁」を設けている。そしてイタリア、オランダは日本同様、外務省国際協力局が援助事業を所管している。

露と消えた援助省構想

回顧するに、日本は1990年代のトップ・ドナーの時代から長い間、援助専管省を設けず、外務省、財務省、経済産業省、経済企画庁による4省庁協力体制で巨額の政府開発援助(ODA)事業をマネージしてきた。これは世界的に見て、日本特有の援助体制であったと言える。ただ、その間、何度となく援助省、あるいは援助庁構想が提唱され、日本独自の戦略的な援助体制の議論もされていた。一時は、外務省の経済協力局を昇格させた「援助庁」構想も提唱された。

しかし、霞が関役所の足の引っ張り合い、権限競いと、政治家のODAへの戦略思想の低さも加わって、次々と潰されて実現できなかった。一つの援助専管省が成立すると、霞が関各省の独自の政策的な利権誘導が難しくなるせいか、彼らは全員集合で潰しにかかる。

こうした状況を政治的に打開しようとする動きがなかったわけではない。1990年代に、非常に珍しいことだが、社会党を中心とする野党側から、参議院へ野党共同で「国際協力基本法案」が提出されたことがある。その中の最大のテーマは「国際開発協力庁」の創設であった。この構想の最大の課題は、基本法案の第4章(国際協力に関する組織の第17条)で、次のように定められていた。

「国際協力に関する行政を総合的に推進するため、別に法で定めることにより、総理府の外局として国務大臣を長とする国際開発庁を置くものとする」

しかし、自民党は言うまでもなく、外務省を先頭にした霞が関の猛烈な反発に遭って、深く議論することなく消えていった。もし、この法案が自民党から出されていたならば、援助庁か援助省が誕生していたかもしれない。

求められる新たな援助戦略

これを日本の援助発展史から見ると、時の政治家をはじめ官僚にも援助事業を重要な国家政策として受け止める戦略的発想に乏しかった。1997~98年にトップ・ドナーになったものの、それは一時的な高度経済成長の結果であり、あえて言うと、欧米の強力な外圧で、他動的に日本が世界一になっただけで、戦略的、政策的にODAを増大させたわけではないと言っても過言ではない。

そもそも、日本の援助理念を唱える「ODA大綱(現:開発協力大綱)」に、政治家、政党、国会、経済界がどれほど関心を示してきただろうか。かつて、ODAが経済協力と言われていた時代には、政府の輸出振興政策にも押されてタイド援助(ヒモつき援助)として日本の経済的権利に大きく寄与する国家政策として、高い地位を占めていた。

ところが、ODAの国際貢献が大きく要請されてくると、ODAの持つ潜在的な権益が減少するとして、経済界の関心は後退し、ODAを実質的に押し上げるサポーターたちが減少していった。

他方、政府の考え方も硬直的となり、ODAの日本独自の戦略性が失われ、ODAの伝統的なアジア・シフトからアフリカ・シフトへ傾斜していく。つまり、援助政策が世界化するにつれて、伝統的な“アジアの中の日本”という原点が失われていくことが危惧される。ODAは世界の所得格差の是正だけでなく、日本国としての国家戦略が援助政策の下敷きになるという役割も帯びているはずである。その意味で、たとえば、中進国に近づく東南アジア諸国連合(ASEAN)への、日本の援助のあり方なども大きく考え直す時代を迎えていると言える。

あえて言うと、日本政府は新たなビジョンで戦略的な援助政策を構想する必要があろう。

つまり、これまでの単なる資金・技術協力から、新たな社会変革への知恵を包含した高度で戦略的な政策協力が求められている。

※国際開発ジャーナル2023年3月号掲載

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