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“互恵”という新しい援助時代へ 問われる「国民の利益」という視点|羅針盤 主幹 荒木光弥

ODAの国益をめぐる論争

2年前だったか、参議院国会議員政策担当秘書研修会で国際協力の国益的視点の話をしたことがあった。

その国益的視点とは次のようなものである。(1)日本の長期的で総合的な外交戦略からの視点(たとえば、地政学的な視点からの日本のASEAN政策)、(2)日本の経済、貿易、金融、産業、農業などの長期政策からの視点、(3)日本的価値の伝播(たとえば、日本ブランドとしての科学技術、地場の経営・技術力、そして伝統文化など)。その時、「国際協力は国益のためではないのか。そうでないと納税者への説明がつかない」と問い返されたことがあった。

彼は今さらなぜ当たり前の話をするのか、と少々怒っていた。政府開発援助(ODA)の業界には、国際協力で国益という言葉を堂々と口にすることを避けてきた長い歴史がある。私たちは長い間「途上国のため」というコンセプトを金科玉条のように守ってきた。

大学でも国際関係論を教える時には、必ず「途上国のため」という考え方を中心軸にしている。何をか言おう、この筆者も同じ穴のむじなであった。途上国への援助のために設立された政府機関の国際協力機構(JICA)も「途上国のため」というコンセプトなしには存続できない組織である。だから、国益という言葉は一種の禁句であった。

だから、JICAの協力事業をサポートする開発コンサルタントも「途上国のため」を念頭に置いて開発事業の絵を書く。JICA職員も技術協力計画を立てる時、当然ながら「途上国のため」を理念にして技術移転の絵を書く。彼らはそうした考え方で援助に没頭する。その時、JICAとともに上記の開発コンサルタントも「日本の技術」、「日本の伝統的な開発手法」を国益色が強いものとして、あえて忘却してきたフシがある。

挙句の果てには、「技術は外国から買えばよい」という不届き者が現れる。日本人の税金を使って、国際的な公共事業(援助)を実施する時は、日本の技術、ノウハウ、機材を使うのが原則である。この原則は、主要な援助国でも同じである。

考えてみれば、私たちは未だに1990年の冷戦崩壊で終焉したはずの「南北問題」という考え方の枠組みに縛られているのではなかろうか。この時代は、美辞麗句に飾られた建て前論があっても、本質は途上国を共産主義化させないために援助していた。その時、「西側陣営のために援助する」というと途上国を敵に回すことになるので、「貴国のため」、「途上国のため」というコンセプトをつくる必要があった。

「途上国のため論」のカラクリ

ヨーロッパの復興(第二次世界大戦後)のために設けられた経済協力開発機構(OECD)のなかに西側援助国の援助原則やルールをつくり、それを守る開発援助委員会(DAC)が誕生して、戦略的に「途上国のための援助」を実施しているのかどうか、援助国を監視するようになった。「途上国のため」という原則でODAの定義もつくり、日本の円借款を援助ならしめるための贈与比率も考え出してくれた。

とくに、日本は「途上国のため」にならない輸出のために円借款協力を悪用しているといって、「アンタイド」という規則をつくり、日本の国益にならない仕掛けを考え出した。もっとも、その本音は自分たちの輸出競争力を守るためであったが、彼らは「途上国のため」という観点から、公平な国際入札に付さない日本の援助は途上国にとって不利益になっている、というのが彼らの大義名分であった。時に、ある途上国が「日本のあのシステムが欲しい。あの技術が欲しい」といっても、OECDのDACは国際入札を強要した。

ところが、1990年の冷戦崩壊で、結果は西側の自由主義国グループの勝利となった。DACが原則にしてきた「途上国のため論」も、タガが緩み始めた。本来、表に顔を出さない援助「国益論」も顔を見せ始めた。そうした動きに、考えもしないインパクトが加えられた。

それは、援助対象としていた途上国群から、急速な経済発展を遂げる新興国が次々と現れて、独自に途上国援助を始めた。

DACはさっそく彼らに、DAC加盟を要請したが、彼らは「援助された経験のある国が援助したほうが途上国のためになる」といって、DAC加盟への勧誘を断った。こうして、DAC建て前の「途上国のため」の援助原則も死に体になりつつある。

そうしたなかで、中国が「Win-Winの援助論」を言い始め、実行に移し始めたからだ。ヨーロッパも財政難を背景に民間資金を頼りにするPPP(Public Private Partnership=官民協調、官民連携)を構想するようになった。

民間資金を活用するということは、それなりのインセンティブを民間側に与えなければ民間活用が成立しない。インセンティブとは基本的に利益オリエンテッドである。これを一国のODAとして表現した場合、国益まじりの途上国援助ということになる。しかも、Win-Win型ODAといえば、間違いなくその恩恵の半分は援助する側に配分される。だから、今やDACの「途上国のため論」は実質的に崩壊したことになる。

こうした状況の激変にもかかわらず、日本の援助関係者、あるいは一部の学者たちは「途上国のため論」を建て前でなく本音で守っているように見える。

援助実施機関のJICA法にも、かつての古い「途上国のため論」の精神が反映されている。大学でも古い「途上国のため論」の援助講義が続いているので、それを学んだ卒業生がJICAなど援助分野に参入してくると、教えられたままの純粋な「途上国のため論」を振り回す。だから、そこにODA国益論が入ってくると、動揺が起こる。

援助思想の再構築

だから、現在の安倍政権のインフラ輸出振興でもODAが加担することに躊躇するODA関係者がいる。まだ「途上国のための援助思想」に埋没している人がいるようだ。だから、そういう人たちは、もともと官民連携という考え方から始まってODAベースの海外投融資、中小企業の海外展開支援にも違和感があるかもしれない。

ODAの広報でも「途上国のため論」が強調された流れになっている。途上国の貧しさを強調しようとしても、現在の日本国民の感性とはスレ違いを起こしている。

途上国のためといっても、多くの国民は目の前に中国のような巨大な新興途上国が現れては、純粋に「途上国のため論」に傾倒しているわけにもいかないだろう。しかも、その中国が援助はWin-Win(互恵)だといっている。それでも、日本は「途上国のため論」への片思いを続けられるのか。

それは一部のODA関係者だけの話かもしれないが、「途上国のため論」から脱却して、時代に合った新しい援助原則(Win-Win)に立ち戻って、本来の日本の国家ビジョンや政策にもとづいて援助概念をつくり、それにもとづいて未来型の「援助大綱」を制定し、日本の外交政策の強い手段になるような対外協力へ転換すべきであろう。そのうえで、現存の援助機関を再構築しなければならないだろう。それが時代の要請ではなかろうか。

その方向性はいろいろ考えられるが、たとえば、従来型のモノの輸出をバックアップするパターンから、優れた研究人材を日本へ吸収するシステムの構築支援、科学技術開発の新局面を創造する途上国との「共同研究」支援、地球規模の課題解決のための協力、さらには日本の新しい文化を輸出するための支援など、これまでの次元を超越した発想が求められる。

※国際開発ジャーナル2013年11月号掲載

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