闘魂再生
日本の近代化への夜明けをテーマにした「坂本龍馬」、日露戦争など明治の建国を描いた「坂の上の雲」などのNHK放送番組は多くの感動と共感をもって視聴率を上げた。それは、極貧のなかで世界の列強に立ち向かう明治人の強烈な気概が、現在の日本との比較において、私たちの心をとらえているからであろう。
私たちは古きを学んで新しき道理を発見するという“温故知新”を求めているのかもしれない。ところが、すでに開発協力の世界でも温故知新が重要なテーマになっている。「温故知新プロジェクト」。聞き慣れない言葉かもしれない。JICA(国際協力機構)では、昔の援助プロジェクトの歴史を貴重な記録として後世に残すだけでなく、その歴史から現在にも通用する教訓を引き出して学ぼうとしている。
周知のことと思うが、日本の対外協力(ODA)の歴史が半世紀を大きく越えようとしているなかで、多くの経験者たちも次々と人生を退場しようとしている。昔の経験、もっと言えば日本のために勇敢に闘った経験の記録を後世に残すという意味で、現在は一種の限界点にあるのではないかと思う。
たとえば、JICA東南アジア第一・大洋州部では40年近く支援してきた、昨年創立50周年を迎えたタイのモンクット王工科大学、24年近く技術協力してきたSRIM(マレーシア工業標準研究所)やシンガポールの生産性向上運動(5S)、さらにインドネシアの古き援助プロジェクトを総括して、それらの記録を残すと同時に教訓を学ぼうとしている。また、JICA経済基盤開発部は1960~70年代の「コンゴ―マタディ橋建設研究会」を催して、かつての建設関係者から貴重な経験を聞き取る努力を続けている。
一方、これも温故知新に入ると思うが、外務省国際協力局の佐渡島局長は、「タグボート論」と称して、新しい援助プロジェクトを発掘・形成(ファインディング/フォーメーション)する、かつての商社的、コンサルタント的機能の再現を模索している。
しかし、現在は残念ながらそうしたタグボート的な役割が存在しない。その意味で、そうしたことはまさに温故知新の領域に入るのである。別な見方をすると、今日の日本は対外的に闘える気迫もシステムも喪失しているといえる。
援助アセット
だいぶん前置きが長くなったが、次に私も委員として関係している「コンゴ―マタディ橋建設研究会」から、いくつかの教訓を引き出してみたい。
途上国の国名はよく変わる。現在の国名はコンゴ民主共和国だが、1965年に無血クーデターで政権掌握したモブツ大統領は首都をキンシャサに移し、国名をザイールにした。マタディ橋建設はその頃の話である。
この国はアフリカ大陸中央部に赤道をまたぐ形で位置している。国土は広く、日本の約6倍強だという。内陸に入り込んでいるために、アンゴラ、ルワンダ、ブルンジ、スーダン、ウガンダ、タンザニアなど9カ国と国境を接している。国名ともなったザイール河は全長約4,370キロ。中国の長江が6,380キロだからその規模が推測される。ただし、流域面積はアマゾンに次ぐ世界第2の大河である。河は首都キンシャサからアンゴラと国境を接する川幅500mと狭い所を流れ落ちて大西洋へ注ぎ込む。その河口がバナナ港である。しかし、内陸の資源(銅、亜鉛、コバルトなど)を自国ルートを通して外洋へ運び出すためには、内陸のイレボ―キンシャサ―マタディ―バナナという二千数百キロの鉄道路線を開発しなければならなかった。モブツ時代はこれを「国民路線」と称した。その中でバナナ港からマタディ橋までの全長150キロ鉄道建設は最も重視された。
しかし、その計画も国際通貨変動による為替差損の発生、70年代の二度にわたる石油危機、そして世界不況下での一次産品価格の低落といった激動の時代の中で、規模縮小を余儀なくされて、最終的にはマタディ橋(鉄道併用)だけが円借款協力(約343億円)の対象となった。そのスケールは全長722m、幅11m、主塔の高さはマタディ側96.9m、ボロ側80.4mの吊橋。起工式は1979年5月。それから4年(1年短縮)かけて、1983年5月21日に竣工式を迎えた。一般には「マタディ橋」と呼ばれているが、公式には「モブツ元帥橋」である。ところが、地元では今でも「モブツ元帥橋」と呼んでいるという。地元の人びとは、モブツ大統領に恩義を感じ、そしてアフリカ一の吊橋をつくった日本と日本人に今でも感謝しているようだ。結果としては、高くついた吊橋づくりだったかもしれないが、これからのコンゴ資源開発を考えると、非常に重要な輸送動脈になる可能性が高い。ある情報によると、中国がこの鉄道ルートを活用した資源開発を打診しているという。日本はそれでよいのだろうか。日本はアフリカ資源開発の貴重なアセット(援助資産)を活用すべきではなかろうか。
援助還流
JICA「マタディ橋建設」研究会に参加して、その歴史の証言から多くの教訓を得ることができた。
まず、そこにオールジャパン形成の原型があった。オールジャパン体制を編成するためには、「国家的な意義」が存在しなければならない。それは、明らかに「資源確保」であった。日本輸出入銀行史によると、1969年のザイール鉱山、1971年のマムート鉱山は日本産銅業界が共同で開発しようとしたもので、当時は二大自主開発案件として注目された、と述べている。当時の佐藤首相はインドネシア石油資源開発でも知られる存在であったが、資源開発は国家的至上命令だといった。このあと国家支援型の開発を「ナショナル・プロジェクト」と呼ぶようになった。
首相がリーダーシップをもって決断(内閣決定)したプロジェクトであるから、オールジャパン体制を組む上での大義名分が明確になり、まず役所が動き、官民一体となった護送船団が組み立てられる。ザイールの場合は、まず資源輸送用の鉄道と橋梁建設が重視され、当時としては破格の1億ドルレベルの円借款協力(タイド)が用意された。結果はオイルショック、為替差損などが重なってコスト・オーバーランとなり、協力は吊橋方式のマタディ橋建設に絞られるようになった。それでも、日本の橋梁技術を世界にアピールする“ショー・ウインドー”としての国益的意義が存在していた。
技術ノウハウ面では、すでに専門家派遣ベースで18人の鉄道、橋梁専門家が1972年に設立されたOEBK(バナナ・キンシャサ設備公団)で日本の技術的指導を展開していた。それらの背景には、運輸省の強い支持の下で国鉄が一種の現場総括を行い、その頃、鋭意進行中の本四架橋公団・研究所と連携し、専門家の派遣も行っている。日本は瀬戸内海と遠きザイールで同時並行的に大規模な吊橋建設を押し進めていたことになる。技術開発と経験も同時に共有していたことになる。
これに日本土木学会も「マタディ橋梁技術委員会」を設けて支援した。また、国鉄、本四架橋公団の他では鉄道公団、首都高公団もバックアップした。他方、実際の建設現場ではIHI(石川島播磨重工)の下で重工各社、商社連合によるコンソーシアムが編成され、一糸乱れぬ共同作業を行っている。IHIはその後、アジアとヨーロッパを結ぶトルコの第2ボスポラス吊橋の建設を受注したが、関係者によると、ザイールの自信が海外受注に弾みをつけたと語っている。
総括してみると、インフラ関連のタイド援助の場合、仮に債務返済が不履行になっても、まず50~100年も使えるインフラはその国に残り、それを人びとが有効に利用することができる。援助した側は、タイドゆえに建設プラント類は輸出実績として残り、援助は日本に還流される。技術協力は初めからグラントなので、その地にその影響力は残しても借金は残らない。もし、円借款がアンタイドで他国が受注した場合、日本にはただ債権だけが残され、大きな国民負担になる。日本の置かれている現状は、内外ともに借金をつくらないことであり、援助といえども再考を要する時代を迎えているのではなかろうか。
※国際開発ジャーナル2011年3月号掲載
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