OTCAからJICA
筆者は去る9月26日、JICA交友クラブで、JICAOBを対象に「JICA物語―栄光と挫折」(JICA設立をめぐる霞が関バトルの真相と1986年のJICA贈収賄事件とマルコス疑惑)を語った。今回は、それら歴史を話題にしてみたい。
話はJICAの前身であるOTCA(海外技術協力事業団)から始まる。OTCAの設立は1962年(昭和37年)。その5年後の1967年(昭和42年)に本誌が創刊される。筆者は創刊から参加している。筆者とOTCAとの出会いはその頃からで、有楽町から四谷に出て、自衛隊本部を通り過ぎたところにアジア経済研究所があり、その隣にOTCA本部があった。その時は労働争議中で、ロックアウトされており、隣のアジア経済研究所を通り抜けてOTCAを訪ねたものである。とにかく、当時のOTCAは荒れ模様であった。
その頃、筆者も大忙しで、1974年のJICA創設から3年後の1977年(昭和52年)の夏、ジャーナル創刊を最初から支援してくれた大来佐武郎先生が海外経済協力基金総裁を辞任して、新自由クラブから参議院全国区に立候補することになり、筆者はその選挙事務所長を務めることになった。しかし、結果は落選。
ところが、大来先生は2年後の1979年(昭和54年)には、不死鳥のように大平内閣の外務大臣に就任。筆者も雑用係で忙しい毎日を送りながら、国際開発ジャーナルの編集・経営にあたらなければならなかった。
OTCAの方は設立から12年後の1974年8月には特殊法人JICA(国際協力事業団)へと生まれ変わる。その時も忙殺される毎日であった。この時の仕掛け人は、農林省と通産省(当時)。外務省は両省から王手をかけられた状態であった。1972年当時、飼料作物がソ連の凶作で、米国からの大量買付けで一気に高騰し、米国に依存する日本は大ピンチに立たされる。当時の農林省はブラジル中部のゼラードという所での飼育作物の開発輸入を検討し始める。民間では三井物産がインドネシア・ランポン州での大規模なメイズ(とうもろこし)開発輸入事業を開始。そこで、農林省は「海外農業開発協力事業団」を、経産省は「海外貿易開発公団」を構想する。海外協力という点で、外務省は両省から王手をかけられ、外務省所管のJICAに海外移住事業団を合体させて、そこに農林・通産両省の提案を入れ込むことで決着させた。この時は、農林議員の政治力が有効に働いた。
芝居がかった御誓文
時の総理大臣は田中角栄。飛ぶ鳥を落とす勢いであった。JICA設立に関する約束事を、当時は誇張して「5カ条の御誓文」と言ったが、それは田中角栄総理大臣の了承を得るための一つの仕掛けではなかったかと思う。当時、田中総理大臣は外務省経済協力局長の「海外での開発輸入が可能になります」という説明に対して、「それは良い。オーストラリアで牛を飼って、カナダで麦をつくれば良い」と言ったという。首相には途上国援助と言う考え方があったかどうか定かではなかったと言い伝えられている。
その時、有名になったのが、JICA設立に関する「5カ条の御誓文」であった。言葉は恭しい。しかし、中味はOTCAと海外移住事業団を合体させて国際協力事業団を設立することや、事業団の担当大臣を外務大臣にするといった基本的な約束事が述べられており、外務、農林、通産といった三省合意が守られるために、このように芝居がかった御誓文が必要だったのかもしれない。
ただ、初めのうちは、農林省による「海外経済協力公団」構想が、党三役、関係5省庁大臣会合で議論されている。当時の政府の顔ぶれはパワフルで、田中総理大臣、福田大蔵大臣、大平外務大臣であった。なかでも福田氏は「国際協力」というネーミングが大好きで、湊徹郎議員(JICA創設の立て役者)が「国際協力事業団」と言うと、間髪を入れずに福田氏は「それだ!」と言った、というエピソードが伝わっている。湊議員は、国会議員の中で、国際協力の重要性を一番初めに考えた政治家として知られている。そのことは、国会図書館で国際協力政策を一緒に勉強したからである。
次の話題は、1986年のJICA贈収賄事件である。1974年のJICA設立から12年後の1986年に、JICA贈収賄事件が起る。まさに、青天の霹靂。ところが、その前には、もっと大きな「マルコス疑惑」、そして「マルコス国会」が世間を騒がせた。中曽根内閣時代である。経済協力で、フィリピンのマルコス大統領やイメルダ夫人との間での黒い霧が国会で問題となり、世間を騒がせていた。それが不完全燃焼のうちに疑惑の矛先が国際協力の現場に向けられ、いかにもマルコス疑惑が一件落着したかのように、贈収賄事件としてJICA職員と開発コンサルタントが逮捕される。
マルコス事件のシッポ切りか
その発端は警視庁捜査二課への“たれこみ”(密告)であった、と伝えられている。マルコス疑惑が不完全燃焼している時だけに、当局は大いに勇んだ。たれこみの内容から、国際協力に明るい人物からのものではないかと言われた。しかし、結果は一人のJICA職員と一人のコンサルタントを罰するだけで終わった。形式的には「倉成外務大臣の有田JICA総裁への国際協力事業団法38条による命令」が発令され、同じ年の臨時行政改革推進審議会の最終答申では、「政府の行政改革」にのっとって、JICA改革を推進すべしとしている。
これで一件落着したわけだが、考えてみれば、最初の「マルコス疑惑国会」での不完全燃焼がまわりまわって霞が関(役所)ではなく、国際協力の現場に落とし込まれて、二人の現場人間の犠牲で、一件落着したとも言える。それは“弱い者いじめ”と言っても過言ではない。これでは、現場における国家への奉仕の精神が失われてしまうと言われた。いわば、マルコス事件のシッポ切り事件という貧弱な解決で一件落着した、と人びとに言われても抗弁できないだろう。
筆者は、この一件落着以来のODAの現場を見ていると、以前のような野心的な援助案件の発掘・形成が下火になり、極めて事務的で安易な援助事業へ進んでいるように感じている。
つまり、一連の流れはODA(政府開発援助)のダイナミズムを奪い取り、日本外交のダイナミズムを減退させ、極めて平易で事務的なODA事業への道を歩んできたような印象を与えている。それは、また日本外交のダイナミズムの喪失へ連動したのではなかろうか。
※国際開発ジャーナル2023年12月号掲載
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