悲願の国益第一号
今年は日本が1954年にコロンボプランという国際援助組織に加盟してから60周年に当たる。これをもって日本の政府開発援助(ODA)の嚆矢としている。
コロンボプランは、1950年に当時のセイロン(現スリランカ)の首都コロンボで開催された英連邦会議でオーストラリアが提案した開発計画で、戦後の南および東南アジア経済開発の良きモデルになった。最終の決定では「南及び東南アジアの共同経済開発に関するコロンボ・プラン」と名付けられた。
日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で太平洋戦争時代の戦後賠償が規定され、まずはアジアへの道が開かれたが、1954年のコロンボプラン加盟は、「国際社会へ復帰」という悲願が込められていた。それは、当時の第一級の国益であった。このように、日本のODAは国益から始まったのである。
その国益路線は、当時の輸出振興政策に組み込まれ、東南アジアでの経済協力によるインフラ整備が、日本の貿易振興、投資を促して、東南アジアにおける貿易、投資、経済協力による三位一体開発を可能にした。
その中で、1960年には円借款協力を主任務とする海外経済協力基金(OECF)、1962年にはコロンボプランを引き継ぐ形の海外技術協力事業団(OTCA)が設立されるが、約10年後には農業、鉱業などの開発輸入という国益を目指す国際協力事業団(JICA)が設立される。
戦後復興も順調に進み、日本経済は1970年代のオイルショックも克服して高度成長へと突進する。その急速な発展ぶりに諸外国は驚嘆し、挙げ句の果てには経済しか考えない経済動物だとして日本を「エコノミック・アニマル」と呼んだ。そうした中で、経済協力開発機構(OECD)のDAC(開発援助委員会)は円借款を“商業的援助”だと批判して、アンタイド化(日本のヒモの付かない援助)を強要した。東南アジアのタイやインドネシアでは「反日運動」が起こり、急激で洪水のような日本企業の進出に拒絶反応を示した。東南アジア諸国には「日本はかつてのような軍事大国に向かうのではないか」という不安感が広がった。
国際益振興時代
1977年、ショックを受けた福田赳夫首相は、マニラで“ハート・ツー・ハート”で知られる「福田ドクトリン」を発表し、「日本は経済大国になっても、決して軍事大国にはならない」と宣言する一方で、ASEAN自身による地域産業共同開発を促進すべく経済・技術協力を強化した。当時は、岸信介首相のアジア外交から始まって、田中角栄首相の日中国交正常化に伴う対中援助、そして福田ドクトリンに伴う対ASEAN援助強化といい、ODAは日本の国益増進に役立った。
ところが、1986年頃になると政府の輸出振興政策が大成功をおさめて、1986年の貿易黒字、つまり外貨保有高は国民総生産(GNP)の4.3%を占めるようになり、日本は世界中から“外貨独り占め”のバッシングを受け始めた。そこで政府は貿易黒字還流ならぬ“資金還流計画”を発動し、約650億ドルにものぼる資金(言うなれば日本の資産)を世界中に還流させた。当時はそれが最高の国益である、とされた。
とにかく「輸出して外貨を稼ぐな」と言うから、ODAのアンタイド化はますます進み、変な話だが、国際益に当たるアンタイド化が国益のように扱われる時代であった。そうこうしているうちに、1990年に冷戦が崩壊し、東西冷戦時代の政治的緊張感の失われた援助時代が始まるのである。そこで、新しい援助コンセプトを包含した「地球環境問題」を提起した「リオの地球環境サミット」が1992年に開幕する。まさに、国際益の権化のような出現であった。
そうした国際環境の中で、「ODA国益論」が影をひそめ、「ODA国際益論」が台頭する。
「外交の手段」としてのODA
まず、ODA(円借款)のアンタイド化がどんどん進み、ODA国益論はどんどん萎縮していく。それに比べて、国際益論は学問の領域にも浸透し、日本における途上国のための経済開発論、社会開発論等々からマスコミ論調にまで波及し、国益を語ることを邪道とする社会現象をつくり出していた。この時代に一気に開花したのが国際益論にくみする国際NGOであった。
一方で、国際益論で教育された若人たちがODA実施機関や役所に参入していくにつれて、援助の現場や政策立案の現場での援助論が国際益論へと傾斜しがちであった。政府は政府で90年代に米国を抜いてトップ・ドナーになったこと自体を最大の国際益のように誇っていた。
しかし、1998~99年頃からのバブル経済崩壊で、ODA予算は年々下降の一途をたどり、国連ミレニアム開発が始まる2000年を境にODAを実質的に補完するPPP(官民連携)思想が国際潮流となり、日本では2009年の外務省「国際協力に関する有識者会議」(渡辺利夫・拓大学長=当時)で初めて“官民連携”が提言される。その結果、JICAの国益にらみの投融資事業が始まり、国益もかなえられるWin-Win(互恵)の援助議論が再生され始める。特に、アフリカ開発協力では、雇用機会の創出になる民間企業の投資が歓迎され始める。米国でも2000年以来官民連携が促進され、10年間で政府資金を呼び水に、民間からの3倍以上の資金動員を実現している。
第3回「ODA大綱」議論でもODAは「外交の手段」、あるいは「国益追求の手段」として強調されているが、ODA国益論も60年前と現在では、時代的価値が違っているように思われる。これからのODAにおける国益追求は、100%国益ではなく、Win-Win思想の下で戦略的に50%国益を目指したほうが、真の国益になるのではないか。
老婆心ながら、国際益なき国益追求も、最後には真の国益を失墜させる恐れのあることを銘記すべきであろう。
※国際開発ジャーナル2014年10月号掲載
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