日本のミャンマー外交の売り物は 少数民族地域での麻薬撲滅協力|羅針盤 主幹 荒木光弥

最大の願いは民族統一

民主化に向かうミャンマー開国の波紋が広がっている。

これまで厳しく対処してきた欧米、日本などは一転してミャンマー詣でが忙しくなるばかり。その一方で、鎖国状態の間にミャンマーの豊富な地下資源や経済権益を占有しようと蠢いていた隣国の中国やインドは、言うに言われぬショックを受けているにちがいない。

それにしても、日本はいつの間に“ミャンマー音痴”になったのだろうか。次々と訪問する野田政権の閣僚たちのメッセージには失望するばかりである。枝野経済産業大臣などはアウン・サン・スー・チー女史と会見し勇んで「ミャンマーの経済開発に協力しますから」と言ったところ、彼女にぴしゃりと痛い所を刺されてしまった。「少数民族問題に配慮して下さいね」と。

ミャンマーの国造りでは、細分化すると135に及ぶ民族の融和問題が最大の政治課題である。なかでもスー・チー女史も属するビルマ族はミャンマー総人口の69%のシェアを有し、ミャンマーの豊かな中央デルタ地帯を専有している。

1885年、英国がビルマをインド植民地領に併合した時は、最大部族のビルマ族の反乱を恐れて、インドからイスラム系インド人を入植させてビルマ族を農奴のように扱った。そして、商売は華僑、金融はインドなどのグループを利用し、軍と警察はシャン(人口比8.5%)、カレン(6.2%)、ラカイン(4.5%)、モン(2.4%)などの山岳少数民族をキリスト教化して登用し、最大部族のビルマ族を抑圧した。

こうした時代背景からアウン・サン将軍が創立したビルマ独立国家に対して、周辺の少数民族が反発し、その一方で、政権を掌握したビルマ族も少数民族を冷遇した。こうして対立が深まった。だから、ビルマ族のスー・チー女史は、ミャンマーの民主化を完成させるには少数民族を包括した統一民族国家をどう樹立していくかに腐心しているのではなかろうか。

外国からの援助がビルマ族の多く住むヤンゴン、マンダレー、ネピドーなどミャンマー中央部に集中しすぎると、地方との生活格差が一層大きくなって、再び地方少数民族の反発が深まり、そして広がることを懸念しているのである。ミャンマーの国造り援助を真摯に考えるならば、視点を地方に向けた援助計画を立案しなければならないだろう。中央の都市部は黙っていても、世界中の民間資本が流入し、ミャンマー経済を活性化させるというシナリオが見えてくる。だから、地方重視の援助はミャンマーのアキレス腱とも言うべき少数民族対策を助けることになる。それは日本へのミャンマー国民、政府の信頼感醸成に大きく作用することになろう。

難渋する麻薬撲滅

それでは次に読者の皆さんに、ミャンマー制裁中に「あひるの水かき」のように、こつこつと辺境の少数民族問題に寄与してきた日本(JICA)の協力を紹介してみたい。

その名はコーカン特別区麻薬撲滅・代替農業開発プロジェクト。コーカン地区はかつて“麻薬トライアングル”の一角をなし、国境の大半を中国雲南省と接している。ここでは麻薬の原料となるケシの栽培を100年前から続けてきたが、今回テイン・セイン大統領の恩赦で釈放されたキン・ニュン元首相の説得で1995年に、2000年3月までに麻薬を撲滅すると宣言して、ケシ栽培を放棄し、代替として日本の協力でソバ栽培などの換金作物を加えた普通の農業経営へ切り替えていった。

こう言うことは簡単だが、それまでケシ栽培で異常な収入を得てきた農民を正常な農業に戻す苦労は、筆紙に尽くしがたい。筆者は、2004年末にこのコーカン地区をJICA専門家と一緒に訪ね、2009年8月に発生した政府軍とコーカン(シャン州第一特区)の軍隊との衝突で行方をくらませた特別区代表のウ・ポン・シャーシン(彭家声)に会い、麻薬撲滅の決意を聞いた。ウ・ポン・シャーシンは遠く800~1,000メートルの山々を望みながら、「かつてあの山々では年間2,000万ドルの収入を得たケシ栽培を行っていた」と語り、農家の収入が大幅に減少するにつれて違反者が出るのを、時に厳罰で臨んだ、とその苦渋談を述懐していた。

ところが、最近のUNODC(国連薬物犯罪事務所)によれば、コーカン地区に接する地域の北シャン州でもケシ栽培が若干増える傾向にあるという。中南米の麻薬撲滅でも問題になっているように、貧しい農民たちにとってケシ栽培はオレンジなどの換金作物に比べ十数倍の収入になるので、すぐケシの魔力に引き込まれていくという。コーカン地区に隣接するワ族は今でもケシを栽培し、それを守るために強力な軍隊を組織して中央政府と対峙している。

さきのウ・ポン・シャーシンは一時、そのワ族に逃げ込んだといわれているが、政府軍とコーカン軍との衝突は政府軍による兵器修理工場での麻薬精製の摘発が原因だという報道もあることから、ひょっとしたら中央政府の民主化混乱の中で、再び麻薬に手を出したことも想像できる。あるいは、地方の政府軍との麻薬の分け前をめぐる争いという推理も成り立つ。さらには、今回のコーカン地区での中央政府の干渉でこの地区を政府の直轄下に置いたという報道に従うならば、そこにはミャンマー政府の政策的意図が働いているという仮説も成り立つ。

それは対中政策の見直しではなかろうか。すでに中国資本による大ダム建設が許可取り消しされている。他方、シャン州北部は中国雲南省と国境を接しており、住人の多くはもとを正せば中国系住民である。そこに独自の軍隊をもつ地域があれば、時に中国の干渉でミャンマー領土の割譲という非常事態もあり得ないことではない。そこらも対中政策是正の一環に組み込まれているかもしれない。

こんな素晴らしい日本人

話を戻すと、ケシは正規の農業にとって魔物である。それでも麻薬撲滅を信じ、コーカン地区でソバ栽培を奨励する日本人たちがいる。事の発端は、1995年に自民党幹事長だった加藤紘一氏が、当時のミャンマーのキン・ニュン第一書記からケシ撲滅のための代替作物の相談を受けた時からである。加藤氏は当時、日本蕎麦協会会長であったことから、彼に依頼された今は亡き岩倉具三氏(自民党審議役)は1996年、信州大学の氏原暉男名誉教授(ソバ研究者)と一緒に1977年からミャンマーでのソバ栽培に挑戦した。

ソバ栽培事業は1997年から始まった。今では、2004~2007年にかけて政府中心の事業(国境省、JICA)だったものが民間へ移されている。その中で特筆すべき人物がいる。

その人は最初から関わった氏原名誉教授である。氏原氏はソバ専門家派遣が打ち切りになった後をフォローするように、日本で独自にNPOを立ち上げて年に1~2回ミャンマーを訪ねて指導している。同時に長野県を中心に、この事業に賛同するソバ業者にミャンマー「ソバ」の継続的な輸入をお願いする運動を続けている。

その上、氏原氏は子どもたちと一緒にNPO「アジア麻薬・貧困撲滅協会」を立ち上げて、年間2~3コンテナのミャンマー「ソバ」を毎年輸入している。ミャンマーの地元では、徐々にソバ栽培が広がるにつれて、ソバの活用を目指して、日本の協力で「ソバ焼酎」がヤンゴン市民のみならず、日本人コミュニティーでも市民権を得ているようである。

レストランはもとよりスーパーマーケットチェーン店、ヤンゴン空港の免税ショップでも売られている。読者の皆さんもヤンゴン訪問の際には、お土産にぜひご購入下さい。私たち市民の小さな好意が、ミャンマーの辺境での麻薬撲滅に協力していることになる。

ミャンマーの少数民族問題で一番難しい麻薬撲滅を目指した代替農業に立ち向かっているのは日本だけである。これからは交通網の整備とともに地方から都市部への野菜、果物などの換金作物が流通する時代になるかもしれない。そういう時代の到来を楽しみに、日本は従来通りの辺境地での農業協力に援助の手を差しのべ続けてほしいものだ。

それが、ミャンマー外交の“肝”であることを強調しておきたい。

※国際開発ジャーナル2012年3月号掲載

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