八田與一慰霊祭
新型コロナウイルスのために憂鬱な毎日が続いている。そうした時、開発援助に携わる人間にとって、実に感動的なニュースに出会えた。今回はその感動を追跡してみたい。
「台湾水利事業に貢献―八田與一をしのぶ慰霊祭」と題する5月9日付の産経新聞の二段記事が目にとまった。筆者は長い間、八田氏の開発魂に触れることを夢見て、一度は命日に当たる5月8日に台湾へ墓参りしたいと願ってきた。
記事によると、コロナ騒動にもかかわらず、今年も八田氏が生涯をかけて建設した台湾南部の烏山頭ダムの近くにある八田夫妻の墓前で慰霊祭が催された。日本からは大使に相当する(公財)日本台湾交流協会台北事務所の泉裕泰代表が駆けつけた。開催側の八田與一文化芸術基金会など台湾関係者からは、八田氏ゆかりの石川県金沢市、さらに加賀市などにマスク100万枚、防護服1,000着が寄贈されることになった。
台湾と日本との関係が戦前において特殊な関係にあったとは言え、今も一人の日本人にこれだけの敬意をこめた慰霊祭を命日に行うとは、世界の歴史においても極めて稀なケースではなかろうか。開発途上国の発展を願い開発協力に挺身する私たちにとって、最も誇るべき日本人だと言える。
八田與一の恩師、広井勇は文久2年(1862年)生まれ。札幌農学校の2期生で、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らと同期だ。小樽築港整備で業績を上げた後、東京帝国大学工科大学教授に招聘された。1903年にパナマ運河建設で九死に一生を得る経験をした土木技師の青山士や、戦前、朝鮮と満州の間を流れる鴨緑江本流を堰き止めて造り上げた世界的な水豊発電所を建設した久保田豊(日本工営(株)創設者)らを育てあげ、彼ら門下生は「広井山脈」と呼ばれるようになった。
八田は、広井の門下生となって治山治水を学んだ。広井は八田に「地球上のどこであろうとも、その地の庶民、弱者のために献身すべきだ」と説いた。八田は台湾という未開のフロンティアに身を投じることを決意していた。
八田は、「真宗王国」と言われる北陸の金沢で、「八田屋」と呼ばれる豪農の5男として生まれた。真宗の「自利利他」という考え方が八田の人格形成に与えた影響は大きかったと伝えられている。ちなみに独立行政法人となった国際協力機構(JICA)の初代理事長を務めた故緒方貞子さんも、援助思想として「利他」を持論にしていた。
世紀の大事業
さて、八田の世紀の大事業は、台湾の全耕地の5分の1ほどを占める南部の台湾海峡に面した嘉南平原に、曽文渓本流の水を引き入れるために、烏山嶺にトンネルを掘削し、そして烏山頭ダム(ロックフィルダム)を建設したことである。ダムの全長は1,273m、堤高56m、底部幅303m、頂部幅9m。この規模は完成当時、世界一だったが、その後間もなくして完成した米国のフーバーダムに抜かれてしまう。烏山頭ダムの満水時の貯水量は1億5,000万トン。着工が大正9年(1920年)で、完成は昭和5年(1930年)だ。
広大な嘉南平原に大量の水が流れ込むと、水田耕作が飛躍するように広がった。地域住民の喜びが目に浮かぶ。それに加えて、八田構想の「3年輪作給水法」を取り入れた「三圃制」が導入された。これは、村の共同耕作地を3つに分けて、その1つに春播き穀類、他の1つに秋播きの穀類を植え、残りの1つは休耕にして家畜を放牧させる方式だ。嘉南平原の全面積は15万ha。これに台湾で磯永吉、末永仁たち稲作研究者の創り出した高品質高収量の「蓬莱米」(台中65号)を導入したので、嘉南平原は劇的な発展を遂げた。まさに世紀の大事業である。
次に、台湾に農業革命をもたらした蓬莱米の研究者である磯永吉と末永仁を紹介したい。
磯は東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)卒業後の明治45年(1912年)に台湾総督府の技手となり、現場研究者の末永と共に稲の品種改良に取り組み、高収量の蓬莱米(台中65号)を育て上げる。蓬莱とは中国東方海上にあって不老不死の仙人の住まう仙境のことである。台湾はこの仙境だと語り継がれてきた。台中65号は昭和32年(1957年)頃には、さらに高収量品種の「台中在来1号」へと進化した。そして、米国のフォード財団、ロックフェラー財団、フィリピン政府によって設立された国際稲研究所(IRRI)がインドネシアの新品種「ペタ」と交配させて、アジアの「緑の革命」をもたらした「IR8」を産んでいる。
八田夫妻の悲劇
しかし、大事業には悲劇を伴うこともある。難工事となった烏山嶺トンネルでは日本、台湾双方で134名の犠牲を出してしまった。八田は昭和5年に「殉工碑」を建立している。当時、八田は44歳。若くして誰も出来ない世界に誇れる大事業を「不抜の信念」(座右の銘)で成し遂げたのである。その心中はどれほどであったか。その満足感は無限の広がりで心を満たしたことだろう。しかし、その後、八田に信じがたい悲劇が襲いかかる。昭和17年5月5日に、フィリピンの綿作灌漑計画を指導すべく、広島県宇品港からフィリピンへ向かう途中、米潜水艦の攻撃を受けて八田の乗船した船に魚雷が命中して沈没。その後、漂流する八田が発見されるが、すでに死亡していた。
しかし、悲劇はこれで終わったわけではない。日本は敗北して、昭和20年8月15日に降伏した。その時、多くの日本人のはりつめた緊張感が一気に崩れた。八田の妻、外代樹夫人はその時、疎開していた烏山頭で敗戦を知った。そして9月1日夜に悲劇が起きた。16歳で嫁ぎ45歳になっていた夫人は、夫の八田與一が生涯をかけて建設した烏山頭ダムに身を投げた。夫婦の一心同体とはこのことである。筆者は八田の人生に限りない感動を覚えてならない。
最近発刊された『台湾を築いた明治の日本人』(産経新聞出版)の著者・渡辺利夫氏は、最後に「開発途上国の発展に資することは、日本の重要な外交課題である。開発学の原点を後藤新平たちの開発の思想と構想の中に求め、日本固有の開発学としてこれを錬磨しなければならないと思う」と述べている。これは、まさに八田與一の現代への遺言を代弁するものである。それはまた開発協力に携わる現在の私たちへの遺言だと言っても過言ではない。
※国際開発ジャーナル2020年7月号掲載
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