躍進するわが「内なるASEAN」 日本人のアジア観が問われている|羅針盤 主幹 荒木光弥

運命共同体という意識

謹賀新年

今年は本誌が創刊されて足掛け50年目である。昨年は日本にとって戦後70周年、そして政府開発援助(ODA)開始60周年であった。

本誌は、この半世紀の間に米国とソ連の「東西冷戦」、その冷戦の中で生まれた旧植民地の独立運動、そして独立間もない南の開発途上国グループと北の先進国グループとの地球を二分するような、南北経済格差の是正を目指す「南北問題」を見聞してきた。そして、アジアでは停滞と発展の中国、ベトナムを中心とする悲劇のインドシナ動乱、そして独立後の国造りに苦悩しながら、後に驚異的な経済発展をとげていく東南アジア諸国の歴史を身近に感じながら、それらの記録を50年間も報道してきた。

1970年代に少しタイムスリップしてみると、当時の日本人は相変わらずの舶来好みで、本の題名に「アジア」という名がついただけで本の売れ行きが悪かった。アジア経済研究所の私の友人は、いったいいつになればアジアというタイトルの本が売れる時代が来るのだろうかと嘆いていた。

目を東南アジアに向けると、タイでは企業進出した日本のビジネスマンのビヘイビア(タイ人軽視)が現地で社会問題となり、現地学生たちの反日運動の一因にもなっていた。そうした中で、経済界は周章狼狽しながらも現地文化の学習会を密かに開いていた。後にこうした勉強会は「異文化学習」として広まった。そのころ“エコノミック・アニマル”という日本批判も世界に広まっていたが、進出先での日本人の現地文化への理解不足も“エコノミック・アニマル”という汚名を浴びせられる一因になったかもしれない。

そうした時代からアジア、特に東南アジア諸国連合(ASEAN)は、1998年のアジア経済危機を突破して、今やASEAN域内関税撤廃の時代に入り、他の開発途上地域に比べ大きく躍進を続けている。日本はアジア経済危機の時、アジアは日本にとって「運命共同体」と言って、新宮澤構想を打ち出して巨額の資金をもってタイ、インドネシアなどの救済に乗り出した。

しかし、多くの日本人は本当に“内なるアジア”という認識で運命共同体という意識をアジアに向けていたであろうか。これからの日本にとってそこが問題なのである。

押しつけのODA貢献論

さて、ここで少し問題提起してみたい。

今の日本は草創期の東南アジアで果たしてきた日本の貢献に今も安易にもたれかかり、過去の栄光に依存してASEANを見ていないだろうか。彼らは経済のみならず、精神的にも知的にも大きく成長している。

たとえば、インドネシアの高速鉄道の国際入札で日本は中国に敗北した。日本にとって最大の被援助国インドネシアであったから日本のショックは大きかった。だからつい愚痴が出る。「あれだけ援助したのに…」と。ところが一転して、「インドネシアの新しい世代にちゃんと日本の貢献(ODA)を伝えていないから日本理解が進まないのだ」と激怒する人もいた。

実は高速鉄道の国際入札で日本が失敗する前に、インドネシアへの日本の援助史を具体的にインドネシア大学で開かれるシンポジウムで語ってもらえないか、という依頼がその筋から筆者にあった。このプログラムはODA開始60周年の一環として企画されたとしても、過去の日本のODAが今のインドネシアに正しく伝えられていないのではないかという不安が日本政府関係者にあったのかもしれない。

しかし、日本の過去のインドネシアへのODA功績が果たして新しいインドネシア世代に理解されるように伝えられるものなのか、筆者には伝えられても、本当に理解してくれるのか自信がない。

日本の場合でも、明治のお雇い外国人の功績がどれほど伝承され、多くの国民に認識されているだろうか。たとえば、民法や刑法はフランス、海軍創設は英国、医学をはじめ陸軍創設から憲法までドイツに学んだ。

明治6年にお雇い外国人として来日した英国人ヘンリー・ダイアーは弱冠25歳で、明治19年に帝国大学工学部になった工部省工学寮(後に工部大学校)の初代都検(教頭)になったことなども広く知られてない。

日本は明治以来、以上のように国家近代化のために多くの知識、技術を西欧から学んだが、それにもかかわらず第一次世界大戦ではドイツと戦い、第二次世界大戦ではアジアで米・英・仏と戦った。そこにはその時代の国益が存在しているだけで、欧米への感謝の気持ちがあったとは思えない。欧米に追い付き追い越せの気概だけが先走っていた。

人づくり協力という救世主

ODAの功績にも被援助国はいずれ冷徹に反応するだろう。タイのチュラローンコーン大学の学生と日本のODAについて激論した時に、学生の一人はこう言った。「援助は互恵だと思う。援助する側にも国益があり、援助される側にも国益がある。良いODAは双方がより良い恩恵を享受することだと思う。だから、援助に一方的な感謝を強要すべきではない」。

インドネシアでは相互扶助のことを「ゴトンロヨン」と言う。日本のODAには感謝してはいるが、相互扶助という意味での感謝であると言う。感謝を強要したら双方の信頼と友好が台無しになる恐れがある。援助のタイド(ヒモ付き)時代は、日本の貸した円借款で日本企業が自国の機材を調達し、そして日本企業が建設していたから、逆に日本はインドネシアに感謝すべきだ、という意見も相手から出てくる。

とにかく、後世にまでわが国ODAへの感謝を伝えるという手立ては見つからない。もし、それを可能にするならば、政治、経済、文化、学問などの分野で重層的に人脈を形成するために、人材の交流、人材育成協力などを継続する必要があろう。

それは世代を超えて、親から子へ伝わる可能性がある。今のODAにはそうしたことがすっぽりと抜け落ちているような気がする。長い目で見て、そうした哲学が日本のインフラ輸出の競争力を強くする道を切り開いてくれるかもしれない。

※国際開発ジャーナル2016年1月号掲載

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