波乱万丈の「平成」から「令和」へ 国際協力の回顧と展望|羅針盤 主幹 荒木光弥

紆余曲折の平成時代

約30年間にわたる「平成」が2019年4月で終焉し、「令和」の時代が新たに始まった。今回は平成の時代を回想しながら、令和における国際協力の在り方について考察してみたい。

1989年から始まった平成の初期、社会にはまだ「昭和」の余熱があった。その一つが、85年頃から露呈し始めたフィリピンのフェルディナンド・マルコス独裁政権をめぐる政府開発援助(ODA)の汚職疑惑である。

日本の国会はその疑惑追及で紛糾し、参議院では国政調査権が発動される騒ぎとなった。しかし、騒動は大山鳴動して鼠一匹も出ずに終わった。

この事件の副産物と言えば言い過ぎになるかもしれないが、86年8月に国際協力機構(JICA)贈収賄が摘発され、ODAの歴史に一つの汚点を残すことになった。筆者は今でも、この事件はマルコス国会のスケープゴートにされたと見ている。

しかし、こうした国内騒動をよそに、国際的には日本への評価は高まる一方であった。第1の理由は、日本のODAが倍増ペースで急速に伸長したからだ。95年には世界のトップドナーとなった。

第2の理由は、「日本は外貨を独り占めしている」という国際批判の中、日本政府が87年に「資金還流」と銘打って総額650憶ドルにも及ぶ資金拠出を行い、国際金融機関などを通じて累積債務に陥っていたメキシコなどの中南米諸国、フィリピンなど多くの開発途上国の債務解消に協力したことだ。

なお、資金の一部はODA倍増計画に取り込まれた。同年、経済同友会は「国際協力政策の新たな転換を求めて」と提言したが、これは政府に対して援助大国としての自覚を促したものとして注目された。

以上は平成元年以前の昭和末期の出来事である。それでは、平成元年からの30年間を振り返ってみよう。

(1)1990年(平成2年)。米ソ対立の冷戦が終結。開発途上国をそれぞれの陣営に取り込む戦略的援助が終焉し、開発援助が本格化する時代を迎える。また突如として湾岸戦争が勃発し、日本は130憶ドルにも及ぶ巨額の財政的国際貢献を行った。

91年4月、海部俊樹内閣はそうした国際貢献に関する議論が過熱する中で、第1次「ODA大綱」の原型とも言うべき「ODA4原則」を参議院予算委員会に提示した。それには①軍事支出、②大量破壊兵器の開発・製造、③武器輸入、④民主化の促進および保障などに関するあり方が盛り込まれていた。

これは92年5月、第3次臨時行政改革推進審議会(行革審)の答申に基づいて、対外経済協力審議会で「ODA大綱」として討議され、6月には閣議決定された。2003年からは第2次ODA大綱、15年には「開発協力大綱」へと継承されている。

世界の援助国へ

(2)1992年(平成4年)。ブラジルのリオデジャネイロで国連持続可能な開発会議(リオ+20)が開かれ、地球規模の環境問題が主要テーマとなり、これからは南北対立ではなく世界が一丸となって次の世代のために地球環境問題に取り組むことが提唱された。リオ+20は、これまでの南北問題という二極対立的な考え方から、持続可能な地球を次の世代に引き継いでいくという大転換を提示したのである。

(3)1993年(平成5年)。第1回アフリカ開発会議(TICADⅠ)が東京で開催された。日本国民は言うまでもなく、世界が改めてアフリカを注目するようになった。今年は8月に横浜でTICAD7が開催される。今では中国のアフリカ進出が拡大しており、日本は援助量と言う点では劣勢に立たされている。新たな知恵と戦略が求められている。

(4)1995年(平成7年)。トップドナーであった日本の援助総額は144億8,900万ドル。これは、日本の援助史の上で最も光り輝く時代であった。しかし、現在では米国、ドイツ、英国、フランスに次ぐ5位である。

(5)1998年(平成10年)。アジア経済危機が襲う。97年7月のタイで始まったバーツ暴落が周辺国に急速に伝播し、翌98年にかけて未曽有の金融・経済危機に発展した。日本では東南アジア経済の安定化のため、緊急対策を打ち出した。ODA分野では構造調整支援のための円借款(700億円)と、総合経済対策による支援などを実施した。

(6)2000年(平成12年)。欧米諸国ではこの年を境に、政府中心の援助から民間と連携するPPP(官民連携)へ移行。日本は欧米に約10年遅れた。

(7)2001年(平成13年)。第1次に続く形で第2次の本格的な外務大臣諮問の「ODA有識者会議」(「第2次ODA改革懇談会」)を開催。02年からは「ODA総合戦略会議」(第2次の「ODA大綱」策定、国別援助計画づくりなど)を05年まで4年間にわたって実施した。07年から09年までは「国際協力に関する有識者会議」が引き続き開催され、①アフリカ対策、②官民連携の具体化としてODAによる海外投融資事業化が提案された。続いて、14年からは「ODA大綱見直しに関する有識者懇談会」が発足。開発協力大綱が討議される。

国益第一主義の時代か

さて、次は2019年5月から始まった令和の時代である。これからは、これまでの「豊かな国が貧しい国を助ける」という援助思想が退潮し、国益が堂々と主役を務める時代へ向かうものと考えられる。日本における大きな理由は1,000兆円以上にも及ぶ国の借金によるもので、歳入に依存する一般会計予算が極めて厳しくなり、ODAは好むと好まざるとにかかわらず円借款協力がより多くを占めるようになろう。

特に重視されるのが、幅広い経済・社会インフラ輸出に貢献する円借款だ。将来は、日本独自の環境対策や制度、社会保障制度といった政策支援型の公共インフラ輸出も人材育成と連携して登場するかもしれない。つまり、“モノ的輸出”から“制度設計を絡めたインフラ輸出”へと内容が大きく変わるのだ。そうなれば、「制度知識・知恵的ノウハウ」が大きな役割を果たす時代となることが想定される。例えば、保健医療分野の場合、制度から技術分野まで裾野は広くなる。

もう一つの流れとしては、今のODAの人材育成において逆転現象が起こるかもしれない。途上国での人材育成協力を日本の人材確保のために活用することが望まれ、これまでのJICA研修事業の逆バージョンが求められる可能性も考えられる。

つまり、日本にも役立つ人材育成がODAに求められる時代になることが予見される。ODAは日本社会を映す鏡である。日本の人口減少と無関係ではあり得ない。令和の時代は、あらゆる面で人口減少が大きく影響して、それがODAの領域に大きく反映されることが考えられる。場合によっては、国益としての人材育成協力がインフラ輸出を凌駕する時代になることも考えられる。こうした時代になると、今のわが国の援助目的、援助政策、円借款、技術協力などの制度が大きく変容することも考えられる。

※国際開発ジャーナル2019年7月号掲載

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