JICAトップ人事の歴史展望 その変遷に見る葛藤と試行錯誤|羅針盤 主幹 荒木光弥

外務省人事の時代

2021年末、国際協力機構(JICA)が2003年に独立行政法人となって以来の第4代理事長の公募が締め切られた。そこで、今回はそのJICAトップ交代の歴史を振り返りながら、筆者の独断と偏見でその交代の長い歴史や背景などを追跡してみた。

JICAの歴史は、1962年の特殊法人海外技術協力事業団(OTCA)の創設から始まった。その次には1974年、これまでの技術協力に加え、海外資源開発事業も実施できる特殊法人国際協力事業団(JICA)設立へと大きく発展する。そして、2003年には時代が大きく動き、それまでの特殊法人から、厳しい行政改革の余波を受けながら、現在の独立行政法人へと移行する。

それでは次に、JICAの特殊法人時代からのトップの座を巡る歴史を振り返ることにする。

まず特殊法人時代を振り返ってみると、当時のJICAトップは理事長ではなく、総裁と呼ばれていた。ちなみに、政府開発援助(ODA)の資金協力(円借款)を担当する特殊法人海外経済協力基金(OECF)のトップも総裁と呼ばれていた。JICAの方は厳密には理事長という呼称が正しいと言われていたが、資金協力のトップが総裁ならば、名称の統一を図ってJICAのトップも総裁にするという経緯があった。

その初代総裁は、最初から外務省の優先的な人事ポストとなっており、外務省では大臣に次ぐナンバー2に当たる事務次官の法眼晋作(以下敬称略)が就任した。次いで2代目が有田圭輔、3代目は柳谷謙介というように、三代にわたって事務次官が続いて総裁に就任した。4代目からは経済協力局長経験者の藤田公郎、5代目は次官経験者の斉藤邦彦(任期半ばで退任)、6代目は経済協力局長経験者の川上隆朗へと継承されているが、同氏は任期途中で退任し、新たに発足した独立行政法人国際協力機構(理事長・緒方貞子)へ引き継がれている。

公募人事の時代

このように、特殊法人時代のJICAトップの座は歴代にわたって全て外務省高官が占有し、継承されてきた。こうした外務省のトップ人事は、その背景にJICA創設からの経緯もあるが、基本的にはODAが外交の重要な手段であるという考え方に立脚していたからだと考えられている。

JICA創設からの経緯を振り返ってみても、1974年にJICAが創設された際、その所管を巡って外務省と当時の通商産業省(現・経済産業省)が激しく所管争いをした。最後には“外交一元化”という大義名分の下で主管を外務省が掌握する形で決着を見ている。

このような時代の背景には、日本のアジア外交におけるODA貢献度が非常に高かったからだと考えられる。例えば、1960年代に東南アジア諸国連合(ASEAN)外交を積極的に推し進めた福田赳夫首相は、平和外交を唱える「福田ドクトリン」を発表し、さらにASEANの工業化を促進させるために10億ドル規模の「ASEAN工業化基金」を設けた。それは言うまでもなくODAとしてカウントされていた。

また、大平正芳首相はASEAN各国の人材不足に着目して、「ASEAN人造り協力」を唱え、ASEAN各国に「人材研修センター」を開設している。そのセンター建設は全てJICAが担当した。このように、ODAは外交の重要な手段として大きな政治的役割を果たしており、その実施は全てJICAが担当した。

ところが、JICAの次の時代は大きく変化して、外務省が強い影響力を持つ「特殊法人の時代」から役所の直接的な影響が大きく軽減された「独立行政法人」へと移行していく。それは2003年前後の厳しい行政改革の流れの中での出来事であった。そうして2003年には独立行政法人としての国際協力機構(JICA)がスタートする。機構の初代トップ(理事長)には、これまでのような外務省人事ではなく、国連難民高等弁務官として多くの難民問題に取り組んできた実績が買われた緒方貞子が就任した。これで、外務省の高官が自動的にJICAトップになるというこれまでの伝統的な人事から、公募により広く人材を求める人選へと移行したのである。

理事公募への思惑

国連経験者でもあり学者でもある緒方貞子から理事長の座を引き継いだ2代目トップは、これまた緒方の強い指名を受けた学者(東京大学)の田中明彦だ。彼の後釜も、国連経験者でもあり学者でもある北岡伸一である。

このように、JICAのトップは歴代、学者で占められてきた。こうした流れに対して、世論の一部では、ODAの実施機関のトップが果たして学者畑の人事に依存し続けてよいものか、という声も聞こえるようになっている。

ある経済人は、外交手段としてのODAの立ち位置で考えてみると、外交経験のある人物が実施機関JICAのトップに立つべきではないのか、と強調する。

またある識者は、JICAのトップは公募、公選ではなく、本筋で言うと、ODAが外交の手段であるならば、まずは外務大臣、あるいは総理大臣による指名が理にかなっていると主張する。これについては、欧米に例をとるならば、援助実施の最高責任者のポストは内閣の一部であり、米国では国務大臣、英国では外務大臣が直接任命しているという。米国国際開発庁(USAID)は、国務省の一機関として1961年に設立されている。また、英国国際開発庁(DFID)は、外務・英連邦省の外局として設立され、英連邦を中心にほぼ50カ国を援助対象にしている(DFIDは2020年に外務・英連邦省と統合し、現在は外務・英連邦・開発省となっている)。

筆者は、そもそもJICAが当時の行政改革の時代的流れに乗って独立行政改革法人になった頃から、トップの座が歴代、学者であることに違和感を抱いてきた。ODAが国民外交、市民外交と一般的に言われても、現実の外交の現場では、それなりに高い政治性が求められるはずだ。時には、その時の政権と運命を共にしなければならなくなることもあろう。

実施機関といえども、トップの選択はもっと厳しいものでなければならないという指摘がある。

ただ残念ながら、現在のODAの外交的な位置づけは、かつての福田首相や大平首相の時代と異なり、重要な外交の手段として重視されず、専らインフラ輸出という直接的な経済利益追求の手段としての役割を背負わされてきた。

しかしJICAには、実施機関といえどもポストコロナに向けて外交的な援助アイデアが求められているはずだ。その意味で、JICAトップへの期待は大きいと言える。

※国際開発ジャーナル2022年2月号掲載

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