ロヒンギャ難民問題
今回は、ミャンマーの悲劇の女王―アウンサンスーチー(敬称略)の転落を追ってみることにした。最近の状況を見ていると、軍事政権は彼女を有罪に追い込み、合法的に彼女の政治生命を断とうとしている。
バングラデシュと隣接する仏教国ミャンマーのインド洋に面するラカイン州には、多くのイスラム信徒、ロヒンギャが住んでいる。筆者に言わせれば、第2次世界大戦後のインドを中心とする英国植民地の国境策定が、後世に禍根を残したのではないかと考えたい。
今のバングラデシュは、かつて東パキスタンと呼ばれ、西パキスタン(今のパキスタン)と共に、イスラム教徒を中心に独立を果たした。その時の東パキスタンとミャンマーとの国境線の引き方が、民族と宗教の存在を無視する形で策定されたと見てよいだろう。その結果、一部のイスラム教徒が仏教国ビルマ側(ラカイン州北部)に取り残されることになった。言うなれば、今日の「仏教徒vsイスラム教徒」という構図は、この時に作られたと言える。アフリカでは民族分断という形で国境線が引かれたが、これらはヨーロッパの植民地政策の残滓だと言われている。
周知のとおり、今のミャンマーは戦後のビルマと呼ばれていた時代から、仏教徒を中心とする国造りが進展した。ところが、それが排他性を高め、異教徒排斥へと進んでしまった。そして、2016年10月以降、ミャンマー国軍によるロヒンギャ武装勢力への掃討作戦が過激化し、ロヒンギャ一般住民の殺害や放火、婦女暴行といった凄惨な人権侵害が発生。わずか2カ月間で約60万人のロヒンギャが越境してバングラデシュに逃げ込んでいる。1970年末、90年初めにもロヒンギャの一団がバングラデシュへ越境し、その規模は15万人、25万人に達したと言う。2017年8月以降のロヒンギャ難民流出は69万人に及び、以前からのロヒンギャ難民と合わせると、その難民総数は90万人に及ぶと見られた。
国連、欧米を敵にまわす
こうした状況に対して、国連では2017年に国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)がバングラデシュでの難民調査を行い、報告書を公表した。それによると、ロヒンギャへの暴力行為が広範囲に組織的に行われ、“人道に対する罪”を犯している可能性が強いと報告された。その後、国連人権高等弁務官は「民族浄化の教科書的な事例である」と報告している。
こうした状況の中で、スーチー国家顧問は2017年9月の国連総会一般討論をキャンセルして、人道侵害を否定している。その後も、スーチーは国連人権理事会が任命した調査団の入国を拒否したために、スーチーへの国際的な評価が一気に下落した。
批判の急先鋒は、米国前政権で国務長官を務めたレックス・ティラーソンで、「民族浄化」だと厳しく非難した。この発言はスーチーにとって決定的な一撃となった。「民族浄化」「ジェノサイド」と言えば、ヒトラーの悪夢のようなユダヤ人大量殺戮に結びつく。これにはヨーロッパ諸国が鋭く反応した。ヒトラーは、まさにユダヤ人の民族浄化を企んだからである。ヨーロッパの人々の反応は鋭く、ここに至っては、スーチー評価は最悪となった。英国はじめ欧州連合(EU)もミャンマー対応を全面ストップさせてしまった。
とにかく、「民族浄化」という一言が、スーチーを国際的な孤立に追い込んでしまったと言える。英国はミャンマー国軍士官教育プログラムを急遽停止した。とにかく英国としては、言葉は悪いが飼い犬に手をかまれた思いだったかもしれない。スーチーは子供の頃から英国でそれなりの思いをもって教育されたはずである、と英国人は言いたくなるだろう。その思いは複雑なはずである。
落ちた偶像
とにかく、この時点でスーチーの政治生命は終焉したと言える。国連や欧米の応援を失ったスーチーは孤立無援となったにもかかわらず、ミャンマートップの座を守ろうとした。そこを、軍部が突いてクーデターを成功させた。ミャンマー軍部のクーデターは、すでに計算済みであったと言える。
今のところ、軍事政権に対して欧米の反応は鈍い。今年1月には石油メジャーの米シェブロンや仏トタルがミャンマーの事業から撤退を表明したが、これまでの制裁の効果はさほど表れておらず、欧米の政府は事態を静観していると言ってよいだろう。これは仮説だが、ミャンマーが中国・ロシアの陣営に入らなければよい、という程度の判断かもしれない。少なくとも、欧米諸国はスーチーの復活を願おうとしないだろう。
とにかく、「民族浄化」という一言が、スーチーの政治生命を断ってしまった。さらに、驚くことは、意外なことだがミャンマーにおけるスーチー勢力の政治基盤の弱さが露呈されたことである。そもそもスーチーの勢力基盤はミャンマーの独立に貢献した父親のアウンサン将軍の偉功に依存するところが大きいはずだが、今ではその権威も失われ、皮肉なことにアウンサン将軍に育てられた軍部に反旗を上げさせてしまった。スーチーはまさに“落ちた偶像”になってしまったのである。
そう思うと、ミャンマーの次の世代を担う人材が懸念される。人材という面では政治家のみならず、政府の行政を支えるテクノクラート(官僚)育成が最も大切であろう。かつて、インドネシアで長期政権を続け、経済成長を成功させたスハルト政権下では、欧米留学組がテクノクラート(官僚)となって、国造りに貢献している。そういう意味で、ミャンマーでも外国留学組の活躍がかなり期待されるはずである。
一説によると、スーチー政権は残念ながら優秀な海外留学組を十分に生かしていなかったと伝えられている。彼らが国家にとって大切かどうかではなく、彼女にとって大切かどうかという判断が優先されていたからだと言われている。また、彼女は自分を過大評価して、中身の薄い自己中心的な国造りに迷い込んでしまったとも言われている。
今となっては、死んだ子の年齢を数えるようなもので、ミャンマーの真の発展期で国際的な不信を招き、挙句の果てには、軍事政権に逆戻りさせたという歴史的な責任は大きいと言える。
ただ、1,500人もの市民を死に追いやった軍事政権がASEANはじめ世界から厳しい批判を受けながら、今後、ミャンマーをどこまで民主化の道に戻すことができるのか。その前途は決して明るいとは言えないが、少なくとも公正な選挙を実行できるかどうか、ミャンマーの前途が試されている。
かつてのインドネシアのスハルト軍事政権が民主化へ移行したような、ある意味での奇跡は期待できないものだろうか。
※国際開発ジャーナル2022年3月号掲載
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