ODAの回帰現象 定まらぬ旅路|羅針盤 主幹 荒木光弥

日本のタイド援助への批判

本号は通巻732号で創刊50周年目の「羅針盤」である。このコラムは、「南と北」、「From the Editor」、「森羅万象」と名称を変えながら50年近く続いている。その字数を概算すると1,000万字以上に及んでいる。それでは50年を振り返りながら日本の政府開発援助(ODA)がどのように変転してきたのかを概観してみたい。

日本のODAは、技術協力をベースとする国際組織コロンボプラン(英連邦が主体)への加盟(1954年)から始まった。この流れから誕生したのが海外技術協力事業団(OTCA)である。その少し前には開発資金を提供する海外経済協力基金(OECF)が、岸首相の発想の下で誕生する。当初の目的は民間による資源開発に対して長期の資金を提供することを狙いとしていたが、韓国への政府借款を契機に、ODAとしての円借款協力へと発展していく。

当時、商社は円借款協力を“円クレ”と呼んで、資本財(プラント類)の輸出や大型の資源開発に活用した。これは、日本の輸出につながるヒモ付きの円借款協力であり、当時のプラントやインフラ輸出振興として重視された。

しかし、70年代の後半になると、経済協力開発機構(OECD)の下部組織・開発援助委員会(DAC)で、円借款のヒモ付き(タイド)援助が「商業的援助だ」と非難され、円借款のアンタイド化(ヒモ付き撤廃)が厳しく求められた。政府もアンタイド化を世界に向かって宣言せざるを得ない立場に立たされた。その頃(1980年)、対中援助が開始されるが、中国は日本にアンタイドの円借款協力を求め、「バラ買い」と言われる自己調達を始めた。わが国民間企業の狙いが大いに狂ったことは言うまでもない。

国益重視から国際貢献へ

1980年代も半ば頃になると、日本の輸出力によって政府の保有外貨が異常なほどふくれ上がり、日本の外貨独り占めへの世界のバッシング(袋叩き)が始まり、政府は“資金還流”という奇策でこの難関を乗り切ることになるが、あれだけ輸出振興と叫んでいた政府が、今度は一転して輸出にブレーキをかける政策へ転換していく。

しだいに円借款協力も輸出振興のための「ヒモ付き」が緩和され、一転してアンタイド化への道が開かれた。これが1990年代末には100%近くまでアンタイドの円借款協力となり、円借款協力は国際社会で援助としての一定の居場所を得ることができた。

さらに、政治的決断で計画的に倍増を続けたODAは、一般会計予算の伸びも伴って、1990年代末には、ある外交官の言葉であるが、“気がつけば”トップドナーの道へと登りつめていた。この頃になると、経済的な余裕を得た政府は、一転して「国益論」から「国際貢献論」へ大きくカジを切って、「国際貢献の日本」を世界へ向けてアピールする。とにかく時代の激変のなかで「ODAの国際貢献論」が、学界でもマスコミでも盛り上がった。外務省幹部は「左うちわ」の毎日を過ごした。ODA増額の政治工作や陳情も必要なかったからである。しかし“黄金の日々”は10年から15年は続いただろうか。特に、冷戦崩壊後(1990年代末)には援助の世界にも緊張緩和が持ち込まれて、特に米国では「冷戦対決」に代わる戦略としての「南北問題」に戦略的価値を失ったように、「南北問題」から退潮していった。

2000年からは国連によるミレニアム開発目標が援助のターゲットになったものの、ヨーロッパは経済停滞で政府歳入が減少したことを背景に、減少する政府支出のODAをカバーすべく、民間の支援を組み込んだ「PPP(官民連携)」が一つの援助潮流として登場する。米国は「国際開発のための同盟」と称して、経済界のみならず、教育界、NPOや多くの財団との幅広い連携を進めるようになる。その頃の米国の論調には、米国在住の開発途上国の出稼ぎ労働者の本国送金を注視した、幅広い国際協力論が語られるようになる。

スタート遅れの官民連携

一方、日本では2000年も終わりに近い頃になって、外務大臣諮問の「国際協力に関する有識者会議」(2007~2009年)で、ようやく“官民連携”が取り上げられて、開発協力で民間企業と連携する「海外投融資」部門がJICAに設けられる。しかし、欧米のように企業のみならず、NPO、NGOといった民間団体活動との連携は、まだ議論の対象にならなかった。

筆者は、JICAに対して企業のみならず、NPO、NGOなどとの幅広い連携を提唱しているが、まだ官と民の“仕切り”が昔のままであり、いまだに逡巡しているようである。ただ、JICAベースの大学との連携は協定を結んで一歩前進している。ただ、これも連携の中身を吟味してみると深みがなく、まだ初期的状況下にあると言える。もう一つは、日本の地域振興協力にも寄与できるJICAベースの中小企業海外展開支援が実を結び始めたことがあげられよう。

これが、ODAとしてどこまで広く国民の間に浸透することができるか、“国民参加”への一つの登龍門になっている。

他方、円借款協力のほうは政治的に日増しに増額され、巨大化(一件当たり)の一途を辿っている。その動機は、政府ベースのインフラ輸出戦略から生まれたもので、それは完全な形で国益論に立脚している。しかも、国際入札に勝つためには、恥かしながら日本に有利になる“スペック・イン”も辞さない構えである。

昔は「プラント輸出」、今は「インフラ輸出」というように歴史的な回帰現象が起こっている。昔のプラント輸出戦略は経済成長への登り龍の時代であったので、欧米に非難されると、擁護したくなったが、今のインフラ輸出戦略は、米国大統領の「アメリカ・ファースト」ではないが、あまりにも国益第一主義に陥っていて、これ以上エスカレートすると、これまで積み上げてきたODAへの好感と信頼が失われていく恐れを感じている。それは筆者だけではないであろう。

日本という国は“輸入力”がなく、もっぱら“輸出力”で生計を立てている国である。米国や中国のように“輸入力”のある国は、黙っていても輸出力を伸ばしたい多くの開発途上国にとって魅力的な存在である。日本が米国や中国の輸入力に匹敵する力を発揮するためには、インフラ案件の発掘や開発にしても相手の尊敬と信頼を呼び込むような、健全なODAの先行が求められている。以上が筆者の50年目の苦言である。

※国際開発ジャーナル2017年11月号掲載

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