進化すべき日本とASEAN 巨大化する中国への懸念|羅針盤 主幹 荒木光弥

日本とASEANの事始め

謹賀新年。本号ではベトナム戦争中の1967年8月に結成された東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本との経済協力関係史を追跡しながら将来を考えてみたい。巨大化する中国の存在を前にして、戦略的に思考すべき問題である。

ASEAN創設にはベトナム戦争が関わっている。戦争の飛び火を恐れた多くの東南アジア諸国は、ベトナム戦争中の1967年に集団的防衛を目指した。そして東南アジア海洋国家5カ国(タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン)が、原加盟国とも言えるASEANを結成する。

今では歴史の影に入りそうな長くて悲惨なベトナム戦争は、米軍が撤退した1975年4月に終焉を迎えた。戦後、ブルネイや大陸部のベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジアがASEANに加盟した。(ちなみに1967年に本誌は創刊された。そして当時は毎号反ベトナム戦争記事を書いた)

米国をはじめとする西側世界は、ASEAN創設について、それなりの思惑通りに事が進んだとして安堵した。特に、ベトナムで苦戦を強いられた米国は、東南アジアに社会主義が“ドミノ論”的な雪崩れ式に浸透することを警戒していた。変な言い方だが、ASEANがその防波堤になるとして歓迎した。今では、米国の取り越し苦労であったことが明白になっている。

米国は当然のように日本に日米協力の一環としてのASEAN支援を要請する。ここに、米国は軍事力で、日本は経済力でASEANを支援し、社会主義の南下を防ぐという一つの日米協力の図式が出来上がったと言える。

こうして、日本の本格的な東南アジアへの大規模な経済協力が始まった。そして、その歴史の中で特記すべきことが、1977年8月の第2回ASEAN首脳会議に続く拡大ASEAN会議で起こった。それは、出席した福田赳夫首相(当時)がASEANの域内工業化促進のために、10億ドル支援を約束したことであった。

工業化と人づくり支援

その援助計画は次の通りである。インドネシアとマレーシアのアンモニア尿素肥料、タイの岩塩ソーダ灰、フィリピンのリン酸肥料、シンガポールのディーゼルエンジンなどの製造を支援した。

とにかく1960~70年代の日本の経済力は世界の中で突出した存在で、まさに“日の昇る国”と言われるほどであった。しかし、その反面、「日本は再び軍国主義に走るのではないか」という、かつての悪夢が東南アジアに広がっていた。

福田首相はそういう状況を察知して、日本とアジアとの「心と心のふれ合い」を唱えた。そしてASEANのレジリエンス(強靭性)を強調し、「日本は絶対に軍国主義に走らない」と強く訴えた。当時はこれを米国ニクソン大統領の「ニクソン・ドクトリン」になぞらえて「福田ドクトリン」と呼ぶ人もいた。これで、戦前からのASEAN諸国の日本への疑心暗鬼が沈静化したのではないかと言われた。

次に起きた変革は第5回国連貿易開発会議(UNCTAD)の後で「ASEAN人づくり協力」を提唱した大平正芳首相(当時)の登場である。大平首相は当時、「中国への援助(ODA)はASEANの最大援助受け取り国インドネシアを上回ってはならない」とクギを刺すほど、ASEAN重視を打ち出した。

その最大の特徴は「人づくり=人材育成援助」であった。福田氏が資金協力なら、大平氏は人づくり協力だと言わんばかりの援助戦略を展開した。

しかし、大平首相は念願むなしく、その後急逝し、鈴木善幸首相(当時)へバトンタッチした。大平首相の遺志を継いだ鈴木首相は、ASEAN5カ国に「人材育成センター」を創設した。この時、沖縄にも「人材育成センター」を建設してほしいという沖縄出身の国会議員団の強い要請があった。沖縄を「ASEANの外郭」に位置付けて沖縄人材育成センター建設を実現させた。極めて画期的な発想であった。

ASEANの人材育成センターの役割は次の通りである。インドネシア(職業訓練指導員、小規模工業普及員養成)、マレーシア(職業訓練指導員、上級技能養成)、フィリピン(建設、家内工業、水産養殖分野の担い手養成)、シンガポール(生産性向上プロジェクト)、タイ(プライマリーヘルス、ケア訓練センター。いわゆる「裸足の医者」養成である)。

アジア経済危機対応

1980年代に入ると、今度はいきなりマレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相(当時)が“LookEastPolicy”(東方政策)を掲げた。「日本や韓国に学べ」を唱えて、日本のモノづくりの技術だけでなく、“質の良いモノを創る心”を日本から学ぶべきだとして、多くの若者を日本に派遣した。そして現場ではモノづくりの技術のみならず、日本人技術者の“モノづくりの心”まで学ばせようとした。

これまで「技術の移転」が中心であったが、マハティール首相は日本人のモノづくりの心がモノの品質を向上させていると考えた。つまり、それがマレーシアの国際競争力を向上させる最大のポイントだと判断していたのである。

次の展開は、1997年のアジア経済危機の時代に生じた。小渕恵三首相(当時)はASEAN域内の産業、企業の足腰強化を図るべく「質高の人材育成」を提唱し、危機救済として3億ドルの資金拠出で対処した。一つの産業を支える各企業の現地人材の質的な向上を図ることによって、産業全体の足腰の強化を図ろうとしたものであった。この時、アジア経済危機は日本経済の運命を左右するものだと言われたが、その運命を握っているのがASEANの健全な発展だとも言われた。

日本という国のいわゆる成長期に支援し協力したASEANが今後成長して、次の時代に東南アジアにおいてどういう役割を果たせるのか。今や老成国家に突入している日本にとって、ASEANがどういう存在になるのか気になるところである。

その意味で、これからの日本にとってASEANとはどういう関係であればよいのかを熟考する時代を迎えていると言える。少なくとも対等の立場で政治・経済の在り方、また文化交流の在り方などを新たに一歩踏み込んで考える時代になっていると言えまいか。

たとえば、日本の提唱するインド太平洋構想においても、ASEANの存在をどう位置付けすべきなのか。少なくとも平等、対等な精神だけは忘れてはならない。

※国際開発ジャーナル2023年1月号掲載

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