巨大市場の中国
今年は日本とシンガポールが外交関係を樹立してから50周年目に当たる。だが、何か淋しい。それは、シンガポール建国の父・リー・クアンユー初代首相の姿を見られないからであろう。この都市国家づくりの天才は昨年3月23日、91歳で天寿を全うして他界した。
他方、東南アジア諸国連合(ASEAN)にとっても惜しいご意見番を失ったことになる。リー首相はASEAN元祖の一人でもある。ASEANは1967年に設立されるが、本格的に稼働したのは76年の第1回ASEAN首脳会議からであった。
それでは、ASEANのこれからに言及してみたい。
話を短縮すると、67年のASEANの成立は極めて政治的であり戦略的であったと言える。今ではすっかり経済優先であり、市場の在り方が最大の関心事になっている。だが、設立当初は、米国の強力な軍事力の下で、大陸からの共産主義勢力の南下を防ぐ、いわば防波堤のような役割を背負わされていたと言っても過言ではない。戦略的には、インドシナ半島にまで浸透してきたソ連・中国共産主義の南下を食い止める狙いがあった。
ところが、今の中国は共産主義国家でなく、強大になった経済大国で、その経済力でASEAN諸国を魅了しながら領土拡張を目指して南シナ海に新たな領土を築きながら、自らの安全保障を確実なものにしようとしている。冷戦時代に竹のカーテンと言われた戦略的な中国包囲網は、冷戦崩壊後、夢のまた夢に終わっている。
今思うことであるが、鄧小平が中国の改革・開放を掲げ、豊かになる者から先に豊かになればよいと唱えていた時に、誰一人として、今日のような世界経済に多大な影響を与える中国経済の繁栄を想定した者はいなかったのではなかろうか。
それはASEAN諸国も同じである。ASEANにとって今や中国は最大の輸出相手国である。ASEANはかつて特恵関税制に乗って、多くの繊維品を巨大市場の米国に輸出していた。だが、今では主役が逆転して、中国が巨大な輸出市場になっており、日本と同じようにASEANの次なる発展に欠かせない存在になっている。
ASEAN内輪の事情
1960年代に東南アジアにおける反共防衛の砦として期待されたASEANは、その意味では完全に形骸化している。しかし、こうした見方はアジアにおけるパックスアメリカーナ側に立ったもので、ASEANには設立当初から民族独立と安定という独自の考え方があったことを忘れてはならない。
直近のASEAN首脳会議でも南シナ海の仲裁裁定をめぐって、中国批判の足並みはそろわない。南シナ海に面しないインドシナ半島内陸のラオス、カンボジアは中国との実質的な利害関係に直面しており、簡単には中国批判に加担しない。それは、単に国境を挟んでの軍事的脅威だけの問題ではなく、中国との国境貿易を含む経済関係がASEANの足並みを乱している。また、中国からの巨額の戦略的な援助にも魅了されている。
中国から見れば、それは戦略的に成功しているように見えるが、カンボジア、ラオス側に立つと、したたかに計算された一つの選択である。
最近では、南シナ海の紛争当事国であるフィリピンのドゥテルテ大統領までもが、インフラ整備のための巨額な経済協力を取り込む計算で米国との等距離外交を習近平国家主席の前で発言するなど、ASEANの団結を逸脱するような言動を繰り返している。それを狂気と見るか、それとも古いASEANの殻を打ち破る一つの行動と見るかは、立場によって見方は違ってこよう。
国父プミポン国王を亡くしたタイでも、中国経済の浸透は確実に進んでいる。
2008~14年のタイ企業と中国企業との戦略的提携を見ても、たとえば、資源エネルギーでは有名なタイのPTTグループはミャンマーで中国海洋石油CNOOCと業務提携し、EGATというタイ発電公社は広東原子力グループと技術協力で提携し、タイのミトポン・シュガーは中国の扶南製糖所と合弁関係を結んでいる。
自動車関連では6件の合弁、家電、情報通信でも4件、不動産開発・工業団地でも4件、金融保険で3件の業務提携あるいは買収案件を数える。
平和緩衝地帯
ASEANに体質変化が起こっている。変化とは、政治的に反共防衛を期待して誕生したASEANからの本格的な脱皮であろう。それを助長したのは、ASEANの経済・社会の成長である。彼らは一つの市場形成に少しずつ自信を持ち始め、市場の拡大に伴って、強力な中国経済との関係強化は避けられなくなっている。なにしろ中国はASEANにとって最大の輸出相手国である。
しかし、ASEANの本来的な役割は端的に言うと、ASEANを東南アジア地域における平和と安定のためのバッファーゾーン(緩衝地帯)になることでアジア全体の平和に寄与するという考え方が昔からある。
米国、日本、中国、ロシア、ヨーロッパをASEANは排除しないが、内政干渉には断固として防衛するという決意を内々に強く抱いている。そうした決意は1960年代の反共戦線の中でも、リー・クアンユーを初めとするASEAN指導者たちの心中にたたみ込まれていたはずである。
1977年にASEAN首脳会議に出席した後、フィリピンのマニラで「福田ドクトリン」を発表した福田赳夫首相は、リー・クアンユー首相にこうささやいたと伝えられている。「ASEANは大国の干渉を排除しなければ存在価値をなくす。だから中国のみならず、米国、日本の干渉も許されない」。
筆者は、後にこの伝説のような秘話を聞かされて、政治家としての福田さんの卓見と、「米国も日本も干渉は許されない」という一つの中立的な理念に強い感動を覚えたものである。
成長したASEANを軸に、アジア太平洋の平和と安定が築かれるために日本はどうすればよいのか。今こそ新たなる日本のアジア外交、ASEAN外交の力量が問われていると言える。
※国際開発ジャーナル2016年12月号掲載
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