ミャンマー日本センター発足
去る8月にミャンマー、カンボジアを駆け足で訪ねた。今回はその雑感を書いてみたい。
[第1話]8月9日、待望の「ミャンマー・日本人材開発センター」の開所式が、ミャンマー政府や商工会議所関係者、沼田幹男在ミャンマー日本大使、田中明彦JICA理事長出席の下で催された。パートナーは長い歴史を有するミャンマー商工会議所(UMFCCI)で、新しいセンターは同会議所が所有する11階建てビルの10階フロアを借り切ることになった。
パートナーが商業省所管の商工会議所というケースは初めてである。世界の8カ国にある日本センター(ベトナム・ハノイ/ホーチミンの2カ所、カンボジア、ラオス、モンゴル、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタン、ウクライナ)のうち、ウズベキスタンだけが相手国政府と協定を結んでいるだけで、残りは各国大学と協定を結び、大学構内に日本センターを設置している。今回のミャンマーのケースは、この国がこれからの発展に欠かすことのできない民間ビジネス人材の育成という点で時代の要請にこたえるものといえるであろう。
ちなみに、筆者もJICAの日本センター事業支援委員会委員長という立場で参席したが、委員長をすでに10年も務め、日本センターのあるべき役割を求めてきたつもりである。日本センターのそもそもの始まりは、10年以前の話になるが、社会主義体制の国々が市場経済の移行を支援しようということで始まった。
しかし、現在、政治は社会主義体制でも経済は市場経済という国も含めて、ほとんどの国々が市場経済化を享受している。したがって、今の日本センターは日本の外交資産として活用する新しい道を構築すべき時代を迎えている。その意味で、今回のミャンマー日本センターは、日本型の中小企業経営や技術開発を移転する実用型援助という点で大きなヒントを私たちに与えているのかもしれない。
初戦敗退の国際入札
[第2話]筆者がヤンゴン滞在中に二つの国際入札悲話を聞かされた。
一つは、ヤンゴンから数十キロ離れた所に建設する未来型の大型国際空港の国際入札が韓国勢にもっていかれたこと。さらに、足元のヤンゴン国際空港の拡張工事も地元ミャンマーの「アジア・ワールド社」にさらわれてしまった。
周知のように、「アジア・ワールド社」のCEOは去る7月に亡くなったロー・シンハンの息子スティーブン・ローであるが、彼は米国で育て上げられた国際人で、経営手法も米国流コングロマリット的で建設、運輸、貿易取引など幅広いビジネスを展開している。ロー・シンハンは「麻薬王クン・サン」と対立するほどの実力者で、その財力は測り知れないという。
一説によると、ロー・シンハン一族は中国政府にも通じており、ミャンマー北東部の中国のミャンマーとの陸上貿易の拠点ムセからベンガル湾へ完成した石油パイプライン建設、なかでもチャオピュー港建設プロジェクトに関与したとみられている。こうしたオーナー企業がミャンマー・ビジネスの新天地を求めて、地元のミャンマーのみならず、シンガポール、香港、インドなどの周辺国からナダレを打って殺到する傾向にある。
彼らは、日本、ヨーロッパ、米国のビッグ・ビジネスが本格参入する前に、たとえば、投資法や土地収用法などが整備されずに進出の決断が鈍っている時に、ハイリスクを覚悟のうえで先駆けないと勝ち目がなくなるからだという。「ハイリスクはまたハイリターンになる」からだと、マネー・ゲームのように一攫千金を夢見る。
こうした人種に対し、日本の多数決型の本社決済依存ビジネスはスピード、根回しという点で対抗できないといわれている。アジアは決して昔のアジアではないことを肝に銘じるべきだろう。
もう一つの国際入札の話は、安倍首相の首脳外交で期待されていた携帯電話ビジネスである。これは、なんと中東のカタールに負けた。その背後の技術的サポートはヨーロッパかもしれないが、一説によると、その裏でオイルマネーをかなり積み上げたのではないかとささやかれている。
日本はこれまで“優れた技術”を売り物に国際商戦を戦い抜こうとしてきたが、“優れた技術”だけで国際入札を勝利することができない時代を迎えているのではなかろうか。経営決断のスピードアップも重要だが、財政的配慮、コスト面での配慮などを工夫しないと、「良い技術であれば勝つ」というのは次第に神話になりつつあるといえないだろうか。
どうすればコスト・ダウンが図れるか。これまでの国際入札をみていると、日本は大型の国際入札案件に対して、「オール・ジャパン」を唱え、時に政府の音頭とりで、かつての護送船団方式を採用しようとするが、ともすると弱者(経営努力、技術開発努力、人材育成努力などを行っていない体質の良くない企業)まで組み入れた、玉石混交の船団方式になりがちだ。
国際競争は強者の対決になる。だから、日本が勝つためには、なにもオール・ジャパンといって日本同士が組み合うのではなく、世界の、アジアの強者と組んで勝利の突破口をみつけるべきではなかろうか。そうしないと、共倒れの日本になる恐れがある。
しかし、国家がなんらかの形で組織的対応をしたり、国家資金を使うことになれば、どうしてもオール・ジャパン的な対応を余儀なくされる。円借款などのODAの活用が良い例だ。そうなれば、上には上があって、国際入札に勝てる保証はない。これは、円借款プロジェクトがことごとく国際入札に負ける背景にもなっている。
女性90%のミャンマー企業
[第3話]現地企業を訪ねた。最初の「アース工業(ミャンマー)」の社長はミャンマー女性。彼女は日本企業で10年ほど働いて日本の経営手法を学んでいる。事業は電力と通信部門の組み立て生産で、これらの部品は主に日本から輸入し、その完成品は再び日本など海外へ輸出している。組み立て工場を見学して驚かされた。それは、なんと従業員の90%以上が地元の若い女性たちであったからだ。また、彼女たちの仕事は決してレベルの低い単純労働でもない。
女性社長に「これはあなたの考え方から生まれたものなのか」とたずねると、彼女は「はい!私の考え方で、会社の方針です。ミャンマー女性たちのパワーアップを望んでいるからです」と明快に答えた。ところが、ちょうどその場に日本の男性がいたので話しかけてみると、富山県の立山科学グループの「立山科学センサーテクノロジー」常務の林さんであった。彼らは目下、このミャンマー企業に対し技術的な支援を行っていると語っていた。すでに日本の中堅どころの地方企業がミャンマーに静かに進出しようとしている。産業の足腰といわれる優れた部品産業、あるいは素材産業畑に日本の中堅企業が進出して、この国の産業の足腰を強くすることは、日本の地方企業の生きる道にもつながっている。
帰り際に再び驚かされた。玄関に並べられたクツがすべて一定間隔で外向きに並べられていた。ちゃんと“おもてなしの心”を体得していた。
次に訪ねたのは、「トラスト・アンド・ゲイン」という小さな建設会社である。社長はなんとヤンゴン大学の元教授。1988年の大学封鎖で転職して、今では成功者の一人になっている。ここでも驚かされることがあった。さすが先生といえばそれまでだが、200人ぐらいに現場での建設技術を教えるトレーニング・センターを運営していることだ。この社長もカレン族出身だが、ここに同郷の青年を呼び寄せて現場での建設技術を教え、卒業すると「証明書」を授与して、隣国のタイでも働けるようにしているという。
※国際開発ジャーナル2013年10月号掲載
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