中国の戦略が見える地図
ここに2019年8月に撮影された一枚の地図を掲載する。この地図(大陸部東南アジア)は、中国・昆明発でインドシナ半島を南へ縦断するもので、20年3月に発行された「アジアの新たな地域秩序と交錯する戦略―タイとCLMV・中国・日本」という研究調査報告書の巻頭に掲載された。CLMVとはカンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナムを指しているが、この報告書の執筆陣には、タイ研究の第一任者である末廣昭教授(学習院大学)をヘッドに8人の研究者が参加している。この現地報告は、コロナ禍で行動が制限されている時代において貴重である。
報告書の説明によると、この地図は、中国南部の都市「昆明」の新南駅構内に貼り出されていた昆明発の大陸部東南アジア、さらにシンガポールを結ぶ高速鉄道建設の計画図であり、中国側の描いた一方的な計画図であると言う。しかし、この地図に秘められた意図は、おそらく中国の「一帯一路」構想の一角をなすものだと言えないこともないが、それはまた唯我独尊の発想だとも言える。
地図を少し説明すると、まず右側路線は雲南省昆明→ラオカイ→ハノイ→ホーチミン→バンコク。左側路線は昆明→ミャンマーとの国境ムセ→マンダレー→ネピドー→ペグ→バンコク(支線はマンダレー→インド洋に面したチャウピュ)。真ん中の路線は昆明→ラオスとの国境ボーデン→ビエンチャン→ノンカイ→バンコク、そしてシンガポールへ。
以上、大きく言うと3つの主要路線が描かれている。筆者は唯我独尊の発想と述べたが、バンコクを中心に大陸部東南アジア地域が将来発展してくると、この構想図は単なる構想図ではなくなると考えたい。
この地図を見ていると、日本はことあるごとに「自由で開かれたインド太平洋」を口にするが、夢物語でもよいから、インド太平洋の発展のための壮大な夢のあの計画を欧米を巻き込みながら押し立てて、インド太平洋諸国を実質的にインド太平洋戦略に巻き込むべきではないかと考えたい。
中国の仕掛けた開発戦略を批判しているだけでは、インド太平洋諸国を、インド太平洋戦略に実質的に巻き込むことは難しい。「自由で開かれた……」と言ってみても、多くの途上国に実際に自由で開かれた構想の恩恵が届かない限り、日本をはじめ欧米が唱える「自由で開かれたインド太平洋」の信頼性は高まらない。
中所得国の罠に陥ったタイ
「自由で開かれたインド太平洋」で多くの周辺国を巻き込んでいくならば、もっと具体的な政治の安定をもたらす経済発展のためにビッグ・プログラムが必要ではないだろうか。どうも日本はじめ欧米諸国は空鉄砲を撃っているように感じてならない。
空鉄砲では、そのうち「自由で開かれたインド太平洋」も、中国になし崩し的につぶされてしまう可能性がある。新たに、中国と国境を接する大陸部東南アジア諸国との経済・貿易関係の強化を戦略的に考える時代を迎えていると言える。
特に、大陸部東南アジアにあって“地域の核”とも言うべきタイに対しては、より高度な政策的国際協力を構想すべきではなかろうか。現在のタイは、経済の低迷に喘いでいる。末廣教授によると、タイは現在、「中所得国の罠」に陥っていると述べている。教授によると、少々難しい言い方になるが、「中所得国の罠」は、それまで低賃金の労働力と低コストの資金を継続的に投入することで経済成長してきた国(特に中所得国)が、労働生産性の向上を伴わない賃金の上昇や、投下した資本の効率性の低下などによって成長率が鈍化した状態を指すものだと述べている。
つまり、低コストの労働と資本の投入による資源主導型成長から、タイミングよく生産性主導型成長に移行できない国が“中所得の罠に陥った国”ということになる。
そして「下位中所得国」(2,000ドル以上で7,250ドル未満の国)に28年間以上留まっている国と「上位中所得国」(7,250ドル以上で1万1,750ドル未満の国)に14年以上留まっている国を「中所得国の罠に陥った国」とみなす。
この定義によると、下位中所得国38カ国のうち30カ国、上位中所得国14カ国のうち5カ国の総計35カ国が「罠に陥った国」に分類されている。これらの大半は、ラテンアメリカ13カ国と中東・北アフリカ11カ国に集中しており、アジアは3カ国と極めて少ない。下位中所得国ではフィリピン、スリランカが、上位中所得国ではマレーシアがそれぞれ「罠に陥った国」に指定されている。
ちなみに、下位中所得国から上位中所得国に移行したのは、マレーシアが1995年、タイが2004年、中国が2009年であると言う。ところが、2011年以降もこれらの3カ国は高所得国に移行していないので、「上位中所得国」での滞在年数は、19年現在、マレーシアが25年、タイが16年、中国が11年になる。つまり、ASEANではマレーシアだけでなく、タイも現在では「罠に陥った国」の代表なのである。
イノベーション成長戦略
タイの経済的停滞は、2015年から20年までの、予測を含めたアジア開発銀行による新興アジア諸国の経済成長実績と予測によると、カンボジア7.3%を筆頭にベトナム7.1%、ラオス6.5%、ミャンマー6.2%と、ASEAN後発組であるCLMVが軒並み高い経済実績を見せている。ところが、タイは4.1%とASEAN加盟国の中心シンガポールを別にすれば、最低の数字であった。15年から20年まで6年間の平均値を見ても、タイの年経済成長は3.5%であり、マレーシアのパフォーマンス4.9%に比べてもタイの実績は低い。しかも、その低成長がこの10年間に際立っていることが明白である。
14年5月の軍事クーデターで登場したプラユット政権は、激しい学生運動と対峙しながらも目下、「中所得の罠」を克服する国家戦略を展開しようとしているが、罠の中でも「中所得国の罠」を重視し、「イノベーション主導型成長戦略」を前面に押し出している。この戦略をとれば、向こう20年間に経済成長は年平均4.5%、投資増加率10%、輸出伸び率年8%に上昇し、2036年には「高所得国」に仲間入りできると計算している。
タイは大陸部東南アジアで中心的な存在で、その役割も大きい。ASEANの健全な発展にとってタイは欠かせない存在である。また「自由で開かれたインド太平洋」にとっても、タイは中国との地域的なバッファーとして重要なポジションにあることを戦略的に重視されなければならない。
※国際開発ジャーナル 2021年9月号掲載
コメント